明智光秀は生きていた?あながちデタラメでもない光秀=天海説と埋蔵金伝説
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その言葉を発し、かの織田信長を討ち果たした明智光秀。
陰陽道や風水に造詣が深く、徳川家康の側近として江戸の発展に関与した南光坊天海。
この2人が、実は同一人物であるという説が存在しているということをご存じでしょうか?
今回は、明智光秀=天海説に関するさまざまな情報をご紹介します。
明智光秀 天海とは
天海は、1500年代に誕生したとされる天台宗の大僧正です。尊号である「南光坊」も広く知られています。生まれた年は諸説あり、1510年に誕生したとの説もあれば、1550年ごろに生を受けたとの説もあります。ただ、詳しい経歴はいまだにはっきりとわかっていません。謎の多い人生を歩んだことに加え、さまざまな共通点を持つことから、明智光秀との同一人物説が浮上しています。
明智光秀=天海説を支えた根拠とは
1582年、明智光秀は“信長死す”の報せを聞いた豊臣秀吉に追い詰められ、山崎で土民に討たれたといわれています。
しかし、実は光秀は生きていて、天海という名で徳川家康に仕え、江戸時代の動乱に深く関わった・・・・・・。こうした考えを持つ歴史マニアも存在します。
明智光秀=天海説はどういった理由で支持されているのでしょうか。
理由1:比叡山の石灯籠
光秀が生きていたという証拠のひとつとして、比叡山の松禅寺にある石灯籠が挙げられます。
この石灯籠は、1615年に「光秀」という人物が寄進したものといわれています。ただ、明智光秀が討たれたとされるのは1582年のこと。実に33年もの年月が経過している計算となります。
もちろん、灯篭を寄進した「光秀」が「明智光秀」であるとは限りません。
理由2:慈眼寺との関わり
明智光秀の位牌は、現在の京都府右京区にある「慈眼寺」に納められています。慈眼寺のある場所は、かつて光秀が築いた周山城の付近です。
また、天海の諡号(死んだあとに付けられる名前)は「慈眼大師」です。ふたつの名前の関連性から、2人を結び付けて考える人もいます。
理由3:明智光秀の埋蔵金
明智光秀には、織田信長を討ち取ったこと以外にも、さまざまな伝説があります。そのひとつが埋蔵金です。
埋蔵金伝説が残っているのは、現在の兵庫県丹波市・丹波篠山市。明智光秀が築城した金山城があったとされる場所です。光秀の残した歌の中に、金山城近辺に埋蔵金を隠したと思しき内容が書かれていたため、この説が誕生したといわれています。
ほかにも、光秀の残した金銀財宝は、前述の京都慈眼寺付近に埋められたとする説や、琵琶湖に沈められたとする説なども存在します。
埋蔵金の行方は現在も不明です。ただ、江戸時代になり、とある人物が埋蔵金を見つけ出したとする推測がなされています。その人物こそが天海です。徳川家康に重用されていたとされる天海が、埋蔵金発掘の責任者となり、財宝の発見に一役買ったといわれています。
天海が明智光秀本人であれば、埋蔵金の発見も容易なはず。ただし、この説を裏付けるものは見つかっていません。また、見つけ出された埋蔵金の行方もわからず、元の場所に埋め戻されたともいわれています。
明智光秀 不確実ながら興味深い明智光秀=天海説
歴史に残る政変を起こした明智光秀。遺体は見つかっておらず、のちの世にて活躍した天海との同一人物説がささやかれてきました。根拠は不確実なものばかりですが、真実は誰にもわかりません。天海として第二の人生を生きた明智光秀に思いをはせてみるのも一興です。
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