多くの師のもと数々の名画を残した洋画家・中川紀元
中川紀元は、マティスなど多くの師に学んだ洋画家です。絵を描くだけでなく、さまざまな活動により日本の美術界に大きく貢献しました。今回は、中川紀元の作家活動がもたらした成果とともに、数々の代表作についてご紹介します。
多くの師のもと名画を描いた中川紀元
中川紀元は、東京美術学校を中退後、フランスでマティスに師事した洋画家です。
1892年、中川紀元は長野県上伊那郡で漢学塾を営んでいた家の次男として生まれます。実家の旧姓は有賀川、本名は紀元次です。結婚により、中川姓に変わりました。
東京美術学校(現東京芸術大学)の彫刻科に進みますが、2カ月後に病のため中退します。再度の上京で、太平洋画会研究所や本郷絵画研究所に通うなか洋画に転向しました。
この頃から藤島武二、石井柏亭や正宗得三郎の指導を受け、1915年開催の第2回二科展で初入選しました。1919年にはフランスを訪れ、マティスに師事します。
中川紀元は、病で一度は美術の世界を離れるものの再び上京してからは多くの師に恵まれ数々の名作を描きました。
渡欧中から精力的に作家活動を展開
中川紀元は、渡欧中から帰国後まで作品制作にとどまらず精力的に作家活動を展開します。
渡欧中の1920年には第7回二科展に「ロダンの家」など4点の絵画を出品し、樗牛賞を受賞しました。次の第8回展のときは「立てる女」など7点を出品し、二科賞を受賞します。
ヨーロッパ滞在に歴史的な意味があったといわれる成果は、第二次フォービスムの日本への移植です。帰国後の1922年、二科会の前衛的なメンバーとともに新しい美術運動を推進しました。
翌年に二科会会員に推挙され、1933年に無所属となりますが、2年後には復帰します。戦中は従軍画家として戦線に足を運び、戦後になると二紀会の結成などに力を尽くしました。
美術界への長期的な貢献は高く評価され、1964年には日本芸術院恩賜賞を受賞しています。
中川紀元を代表する数々の名画
中川紀元は、再び上京した頃から多くの作品を描いてきました。ひと口に代表作といっても、数々の名画が挙げられます。
大正年間から戦前、二科会に出品した著名作としては上述した「ロダンの家」や「立てる女」以外にも「青五氏の肖像(1916年)」「ラヂオを聴く(1925年)」や「夏庭(1928年)」があります。
戦後、1947年の二紀展第1回展に出品された名作は「村の風景」や「夏の朝の伊那の谷」や「夏の駒ケ岳」です。これらに限らず、中川紀元が残した洋画は買取で高く評価されると見込めます。お持ちの作品があれば、お気軽に査定に出してみてはいかがでしょうか。