日本画家・鈴木松年|「曾我蕭白の再来」と言われた豪快さ
鈴木松年は「曾我蕭白の再来」と評される明治~大正に活躍した日本画家です。上村松園の師としても知られ、力強く豪快な作風でいまもその作品は人気があります。今回は鈴木松年の生い立ちや活躍ぶり、作風・代表作などをご紹介していきます。
鈴木松年の生い立ちと画号の由来
鈴木松年は1848年に京都東洞院錦小路にて生まれました。父・百年は日本画家で鈴木派の開祖です。松年は幼い頃から父に絵の手ほどきを受けていたそうですが、本人は指導を受けることを好ましく思っていなかったようです。
松年が画家の道へ進むことを決意したのは意外に遅く、20歳を過ぎてからでした。まだ無名の松年は実力があったものの、「親の七光」と周囲からいわれることもありました。そこで22歳の時に一日で千枚もの絵を描く席画会を企画。それを成功させて実力を認めさせることに成功します。
その後、日本画はもちろん洋画なども積極的に学び、松年はひたむきに研さんを重ねていきます。1880年32歳の時に「松に千年の翠あり」という言葉から画号を「松年」としました。これは偉大な父・百年を超えるという意気込みの表れだったそうです。
遅咲きながら一気に才能が開花する
1881年から1888年まで、鈴木松年は京都府画学校の副教員として勤務します。その傍ら作品の出品も行い、1882年に第一回内国絵画共進会へ「蘇東坡図」「老松図」を出品して褒状を受け、1884年には第一回内国絵画共進会で銅賞を受賞します。さらに1885年に第四回京都博覧会へ「蓬莱山図」を出品し妙技賞銅牌を受けるなど、その実力が認められていきました。
その後、京都府画学校を退職した翌年の1890年、第三回内国勧業博覧会には「雪景山水図」、1893年の第四回内国勧業博覧会「群仙図」「嵐山春景」でそれぞれ妙技三等となりました。海外でも作品は評価され、1900年開催のパリ万国博覧会で「松㵎水声」を出品し銅賞となっています。
遅咲きながら破竹の勢いで名を高めた松年は1907年の「大日本著名画家名鑑」において“総後見”に位置づけられ、京都画壇でもその地位を確固たるものとしました。
弟子・上村松園が語る鈴木松年
鈴木松年は父・百年の穏やかな画風とは対照的です。「曾我蕭白の再来」と言われるほどの豪快さで有名でした。かすれるほどに強い墨線で描かれる松の絵は、松年らしさがあります。
弟子であり、美人画を得意とした画家・上村松園は「先生は刷毛をお使いになられない」「筆に力が入り紙が破れることも多々あった」「こちらの手先にも力が入るほど荒いお仕事ぶり」と松年について語っています。このことからも、鈴木松年の作品や性格の豪快さが見て取れます。
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鈴木松年は明治から大正にかけて活躍した日本画家です。松年の力強く豪快な作品は市場でも人気があり高値買取されています。
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