村山槐多は22歳の若さで亡くなった洋画家|文学にも才能を発揮

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村山槐多は、22歳という若さでで一生を終えた洋画家です。短い人生のなかで多くの名画を生み出し、「夭折の画家」や「早世の天才洋画家」といわれています。今回は、若いうちに生涯の幕を閉じた村山槐多の足取りや画才の発揮された代表作などについてご紹介します。

若くしてこの世を去った洋画家

村山槐多は、22歳の若さでこの世を去った洋画家です。1918年に結核性肺炎の診断を受け、翌年、世界的に流行していたインフルエンザ・スペイン風邪にかかり亡くなりました。

かつて出生地は父親の職場があった神奈川県横浜市といわれていましたが、岡崎市美術博物館の学芸員が、親族への聞き取りと岡崎市役所に残された槐多の出生届資料を確認。2011年12月、正式に愛知県岡崎町が槐多の出生地と公表されました。の声も聞かれます。1896年に、母である「たま」が「森鴎外家」の女中奉公をしていた縁があり、村山家では鴎外がの紹介で結婚した両親のもとに生まれました。一説によれば、槐多の名付け親になったと言い伝えられているようです。命名者は森鴎外です。

幼い頃から絵を描くのが好きであり、京都府立第一中学校の在学時に創作活動を手がけています。中学2年のとき画家であったいとこの影響で画家を目指し始め、1914年、中学卒業とともに上京しました。

この年の第1回二科展に出品した絵は初入選し、1点は横山大観による買取となるなど高評価を得ます。ただ4年後に結核性肺炎となり、翌年に22年の短い生涯を閉じました

早くから発揮された画才

村山槐多の人生は短いながらも、絵画における才能は早くから発揮されていました。

10代で第1回二科展に出された作品は、4点あります。これらを制作していた当時は、画家や歌人として名高い小杉未醒の邸内に、いとこの紹介で下宿しながら高村光太郎の工房に出入りしていました。

出品作4点のうち1点は、上述の通り横山大観に買い取られます。さらに「庭園の少女」は、雑誌「みづえ」に掲載されました。その後、日本美術院に発表した絵画表現主義的な作品として注目されます。

最近は、少年時代の作品も数多く見つかりました。いずれも風景を純粋かつ誠実に表現しているといわれ、14歳で描いた「房州風景」風景画の一つの到達点を示すと評されています。

文才にも秀でた画家

村山槐多は中学在学時に画家を目指しますが文才に秀でたことでも知られ、「夭折の洋画家、詩人」や「夭折の天才詩人画家」と称されます。

京都府立第一中学校では、美術の分野だけでなく文学方面でも創作活動を展開しました。在学中に多くの詩、小説や戯曲をつくり、画才とともに優れた文才を発揮しています。

他界した翌年、友人たちは生前に残された詩や戯曲をまとめ「槐多の歌へる」を刊行しました。美術と文学のいずれにも秀でた才能は、横山大観、高村光太郎、与謝野晶子や芥川龍之介の注目を集めます。

画才と文才ともに恵まれた村山槐多の洋画は、いまも高く評価されています。「なんぼや」では、洋画に精通したスタッフがお客さまの大切なお品物をしっかり査定、高価買取いたしております。手持ちの作品の価値が気になる方は、お気軽に無料査定をお試しください。

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