日本画家・谷文晁|多彩な画風と独特な逸話を持つ画家
谷文晁は富士山を好み多くの名作を残した日本画家です。人物画、山水画、花鳥画、仏画と幅広く多彩な画風を持ち、写山楼にて多くの有名日本画家を育成した人物でもあります。今回は谷文晁の生い立ちやその画風を育てた背景、文晁ならではの逸話などをご紹介します。
谷文晁の生い立ち
谷文晁は1763年、江戸下谷根岸に生まれます。父・谷麓谷は田安家の家臣であり有名な漢詩人でもあったそうです。そのため、文晁は和歌・漢詩・狂歌などもたしなみ、画才だけでなく文才を持ち合わせた子供だったといわれています。
谷文晁は10歳の頃に狩野派の加藤文麗に師事し、日本画を本格的に学びます。その後は南画家・中山高陽の弟子である渡辺玄対に師事。南画を学び、20歳になると北山寒巌から北宋画を学びます。さらに、その後は大和絵の古土佐、琳派、円山派、四条派、そして朝鮮画や西洋画まで学んでいったとされます。
このように、谷文晁は若い頃から多くの画風に触れて学び、その感性や技術力を養っていったのです。
仕官し画業に専念、後進の育成も
文晁は26歳で田安家に仕官し、30歳で松平定信の近習となります。1793年には江戸湾岸巡視に同行し風景写生を担当、1796年には定信からの命により全国の古社寺・旧家にある文化財の調査をして数多くの模写をしたとされます。当時の模写・記録については「集古十種」として刊行されました。
各地の調査だけでなく、文晁自身も旅を好んだ人物だったとされます。30歳になるまで日本全国を旅し、1812年の「日本名山図会」は日本の山岳89座の風景を90葉の画で表した名著となっています。
また、後進の育成にも努め、「写山楼」という画塾を開き渡辺崋山・立原杏所ら後の大家となる弟子たちを抱えます。晩年は御絵師となり剃髪、75歳で法眼位に叙されました。
確かな技術と幅広い知識・感性を持った谷文晁
谷文晁は、加藤文麗をはじめとする数多くの師から学びました。そのため、確かな技術力を持ちつつ、山水画、花鳥画、人物画、仏画と幅広い作域であったことでも有名です。自身としては古画を模写すること、そして写生を基礎として重要視し、写山楼でも弟子たちにその重要性を伝えていたとされます。南北合体を目指し「八宗兼学」と呼ばれる独自の画風を確立しました。
また、谷文晁は商才にも優れていた面があったともいわれています。例えば、大みそかの夜に富士を描いた扇を街中に数十本落とし、それを元旦に見つけた人が「正月から富士とは縁起が良い。この見事な絵を描いたのはあの谷文晁か」と口コミを利用した宣伝をしていたようです。
また、写山楼の弟子たちには文晁の落款を自由に使わせていました。生活費を稼ぐため、弟子たちは自分の作品に文晁の落款を押して販売していたというのはあまりに有名です。こうした経緯から、谷文晁の作品は「100のうち99が偽物」とまでいわれ、現在でも落款のみでは真贋判定が難しいといわれています。
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谷文晁は若い頃から多くの師に学び、南北合体を目指した「八宗兼学」と呼ばれる独自の世界観を生み出した日本画家です。現在でも谷文晁の真作は貴重かつ人気が高いため、高額取引されています。
もちろん、「なんぼや」では谷文晁の日本画を積極的に買取しています。弟子にも高名な日本画家がたくさんいますので、文晁に関わる人物の日本画もお気軽にお持ちください。