頼山陽のライフワーク|日本を動かした「日本外史」

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頼山陽は、日本を動かすきっかけの1つとさえいわれる「日本外史」を世に送り出した人物です。頼山陽のルーツを探り日本外史ができあがるまでの流れや、彼の執筆にかける覚悟についてご紹介していきます。

頼山陽の生い立ち

頼山陽は儒家で詩文や書の才を持つ父・春水(しゅんすい)と歌人である梅し(ばいし)の長男として生まれました。頼山陽は父と同じように詩文の才能があり、歴史に興味を持つ少年であったといわれています。父が長く江戸在勤となっていた折に、母方の叔父で儒学者であり学問所教官だった杏坪(きょうへい)に学んでその才能を磨いていきました。

病弱で精神的に不安定な面があり子供のころは何度も発作を起こし、青年期も脱藩して京に潜伏するなどの問題を起こします。そのため山陽は頼家廃嫡、自宅に幽閉されるといった措置を取られてしまいます。

3年の幽閉と2年の謹慎で合計5年もの間、外出は一切許されませんでしたが、逆にこれは山陽にとって好きな学問に打ち込める時間となったようです。実際に、この期間の間に後のベストセラーとなる「日本外史」の草案が練られて草稿が書き上げられたのです。

頼山陽のベストセラー「日本外史」

「日本外史」とは、漢文体で書かれた平安時代から江戸時代までが記された国史の史書です。たっぷりと独りで学ぶ時間があった幽閉・謹慎期間中に草稿を書きました。その後、20数年をかけて推敲を重ねて全22巻を完成。このように、「日本外史」とはいわば、山陽のライフワーク的な作品です。

完成した「日本外史」を元老中の松平定信に献上したことで「白川楽翁(松平定信の異称)のお墨付きを得た書である」という評価が世間へと定着。ベストセラーへの下地ができあがりました。

刊行後は批判も多くされましたが、軍記物を参考にしていたことから「武人でも読みやすくわかりやすい」という評価を受けます。また、史記を模倣していることから「史記のような風格を持つ文章」といった評価もされました。また、幕末の勤王志士らの愛読書となって日本が近代化するきっかけになった書でもあるといわれています。

死の間際まで頼山陽は執筆を止めなかった

頼山陽は代表著作「日本外史」がライフワークであったように、歴史化・思想家・漢詩人として有名になります。その一方で、詩吟や剣舞にもその才能を発揮し、漢詩で川中島の戦いを描く「題不識庵撃機山図」や歴史事件を歌謡風に詠じる「日本楽府」という作品も生み出しました。

1832年に亡くなるまで執筆をやめず、死の間際まで筆を執っていたといわれています。

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