荒木十畝は伝統と新たな変化を取り入れた日本画家|海外でも積極的に活動

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荒木十畝は、伝統を大切に考えながら新しい流れも受け入れた日本画家です。国内外を問わず積極的な作家活動を展開し、数多くの名作を描きました。今回は、荒木の姓を名乗るまでの経緯をはじめ新たな日本画を目指したときの立場や海外での功績などについてご紹介します。

朝長家から名門の荒木姓へ

荒木十畝は、もともと長崎県の朝長家に生まれました。上京後に荒木家の養子となり、荒木姓を名乗ります。
出身は、かつての長崎県東彼杵郡大村久原郷(現大村市)です。1872年に、大村藩士であった朝長兵蔵の次男として誕生します。当初は、雅号に琴湖を用いていました。
1892年に20歳で上京すると、荒木寛畝に師事します。翌年に養子となり谷文晁からの系譜に連なる名門の荒木家を継ぐと、荒木姓を名乗るとともに「十畝」の号を授かりました。
荒木姓となった2年後の日本美術協会展では1等褒状を受賞し、その後は日本画会の設立などに参加するなか、日本画壇において存在感を増していきます。

独自の立場で作品づくり

荒木十畝は絵を描くうえでは「守旧漸進主義」を掲げ、独自の立場で作品づくりを進めました。
日本美術協会の会員になった1895年頃は、日本画壇でさまざまな主義主張が登場した時期です。派閥同士が対立するなか1907年設立の正派同志会で幹事長になるなどの動きは、周りに旧派の代表と見なされました。
ただ実際は、伝統的な日本画の手法を基礎に置きながら新たな表現を追求していきます。日本画の変化を否定したわけでなく、守旧漸進主義の立場で自分自身が理想とする表現方法を目指し続けました。
基本的には伝統を守りながら対立派閥にも理解を示したといわれ、新旧の要素を取り入れる独自の立場で新たな日本画の誕生に貢献したと評価されています。

海外でも積極的に活動

荒木十畝は、海外での活動にも積極的でした。数々の作品を発表するだけでなく、盛んに交流を進めています。
よく知られる活動は、パリ万国博覧会(1900年)やセントルイス万国博覧会(1904年)への出品です。セントルイスの博覧会で発表した「秋汀群鴨」は、銀牌を受領しました。
さらに、1926年の日華聨合美術展や1931年の暹羅日本美術展覧会の開催に尽力します。晩年となる1939年にも日華文化親善のため中国に足を運び、大きな功績を残しました。
国内外で幅広く活躍した荒木十畝は、独自性の感じられる絵画を数多く描いています。魅力あふれる十畝の日本画は、買取での評価も高くなる可能性が十分にあります。ぜひ「なんぼや」へ査定にお持ちください。

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