松村呉春の掛軸|力強い蕪村風の作品から写実的な円山派風の作品まで

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松村呉春(まつむらごしゅん)とは、江戸時代中期に活躍した絵師で、四条派の始祖にあたる人物です。絵画のほかに俳諧や書、横笛なども得意とし、多彩な才能を持つ人物でした。今回は、現在も京都画壇に強い影響を与え続けている松村呉春についてご紹介します。

与謝蕪村に学び本格的に俳諧師・絵師に

松村呉春は、1752年、京都の金座年寄役の家に生まれました。本名は豊昌(とよまさ)といい、呉春はいくつかある号の内の一つです。初期の画号、松村月渓という名でも知られています。

家業を継ぎ金座の平役を務めていましたが、1770年ころに大西酔月に師事、酔月が亡くなると次は与謝蕪村の内弟子になったといいます。蕪村から俳諧や南画を学び、金座を辞したタイミングで本格的に俳諧師・絵師として身を立てていきました。

その後大阪府池田市に移り、蕪村をほうふつとさせる力強い画風の人物画や花鳥画、俳画などを残しています。蕪村は自身の句に自画を合わせた俳画を制作していたのに対し、呉春は蕪村らの句に自画を添えることが多かったようです。この時代から円山派風の作品を描き始めるまでを「池田時代」、又は「天明時代」といいます。

円山応挙と出会い写実画へ転進

蕪村の死後、円山応挙に接近し弟子入りを志願しますが、呉春の才能をすでに認めていた応挙は「ただ共に学び、共に励むのみ」と答えたという逸話が残っています。しかし応挙との出会いを機に、呉春の画風は一転して写実的に変わっていきます。

1795年に2回目の大乗寺障壁画「四季耕作図」を描くころには、円山派風の絵に変化していました。呉春の画派は呉春の住んでいた場所から「四条派」と呼ばれ、応挙の死後は京都画壇の中心になりました。独自の画風に円山派風の写実的要素を加え、新しい画風の確立に成功したのです。応挙をはじめとする円山派の絵が、時に堅苦しいほど真面目な印象を与えるのに対し、呉春の絵からはモダンでしゃれた要素が感じられます。このような点が当時の人々に受けたため、呉春の四条派は円山派から独立して確立できたのです。日本美術史を語るうえでは、応挙と合わせて「円山・四条派」と呼ばれることもあります。

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日本美術に強い影響を与えた四条派の始祖・松村呉春は、今でも多くの人に影響を与え魅了しています。呉春の掛軸は買取市場でも需要が高く、高値で取引される可能性が高いアイテムの一つです。もし、ご自宅に買取予定の松村呉春作品がございましたら、ぜひ「なんぼや」の無料査定をご利用ください。

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