刀装金工家・後藤一乗|幕府や皇室に認められたその実力と作風

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後藤一乗は幕末から明治にかけて活躍した刀装金工家です。名門・後藤家の分家当主でありながら、その確かな技術力と自由な発想で、本家以上に幕府や皇室から重用されました。今回は後藤一乗の生い立ちやその作風などについてご紹介していきます。

後藤一乗の生い立ち

後藤一乗は1791年、京後藤家の分家である後藤七郎右衛門重乗の次男として京都室町頭木下町に生まれます。9歳となる1799年に同じく京の分家・後藤八郎兵衛謙乗の養子となりました。後藤家は刀装金工の名家として知られ、将軍家の御用を代々勤め上げてきた家柄です。一乗はその分家に生まれ、養子となったということになります。
11歳の時に半左衛門亀乗に師事し金工技術を学び、後の刀装金工家としての基礎を固めていきました。養父である謙乗が亡くなったことから、15歳の時に八郎兵衛家の六代目当主となります。

本家すらもしのぐ実力と評される

1811年には、室町時代から御用達彫金師として将軍家に仕える「四郎兵衛宗家」より、大判の墨書書改や分銅制作の依頼を受け、業務を拡大します。さらに1824年には光格天皇の刀装具を制作し、その功績が認められて法橋(僧綱の僧位のひとつ)に叙せられました。
1851年には10人扶持を受けて江戸に下り、幕府御用にて刀装具を製作。1855年には十三代将軍・徳川家定にお目見えするなど、刀装金工家として高い名声を得るようになりました。さらに1862年には孝明天皇の刀装具を制作し、翌年に法眼に叙せられます。
1866年に息子・光伸へ幕府の御用を譲り、「一乗細工所」を経営し、優れた弟子たちを排出しました。

後藤一乗の伝統的技術に裏付けされた自由な作風

江戸時代において、後藤家の刀装具は格式が高く、登城など公式の場では後藤家のものを身につけるのが当たり前でした。しかし江戸中期以降は形式主義に陥ることで「町彫」が台頭します。
後藤一乗は分家ではありますが、伝統ある後藤家の当主として伝統的な技法を学び、高い技術力を持っていた人物です。その一方で、絵画・和歌・俳諧に長じた教養人・文化人であったとされています。そのため、一乗の作風は伝統的ながら雅味があり、後藤家の中でも一味違う魅力を持っていました。このことを裏付けるように、幕末から明治に活躍した金工師・加納夏雄は「後藤一乗なる人物は技量に優れて世に評価され、本家である後藤家をも圧倒した」と後藤一乗を評価しています。
また、後藤家では金・赤胴以外の地金を用いた製作が禁じられていましたが、一乗は鉄地の鍔(つば)も制作していたとされます。ただ、さすがに問題があると感じたのか、「伯応」「凹凸山人」「一意」「夢竜」など一乗以外の別号を使って製作していたそうです。こうしたことからも、後藤一乗の自由さが見て取れるのではないでしょうか。

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後藤一乗は名門・後藤家の分家当主でありながら、高い技量と絵画的で自由な感性により刀装具を製作してきました。形式主義に陥った本家と一線を画し、幕府や朝廷にも認められたことからも、そのセンスや技量が優れていたことは間違いありません。
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