精中宗室 玄々斎とは|外国人をもてなす「立札式の点前」

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精中宗室 玄々斎(せいちゅうそうしつ げんげんさい)は、明治時代に活躍した茶匠の一人です。その功績は多岐にわたり、“近代茶道の祖”と呼ぶ茶道家も少なくありません。今回は、精中宗室 玄々斎の生い立ちや功績についてご紹介します。

精中宗室 玄々斎の生い立ち

精中宗室 玄々斎は、江戸末期である1810年に三河国奥殿藩四代藩主・松平乗友の五男として生まれました。松平乗友と交流のあった裏千家十代家元の認得斎は男児に恵まれなかったため、後継として当時10歳の玄々斎を養子に迎え入れます。

玄々斎17歳の時、養父であり師であった認得斎が亡くなりました。その後、認得斎の妻・宗江や門弟・宗朴が後見人として、玄々斎を茶人に育てます。精中宗室 玄々斎は22歳になり、認得斎の長女・照をめとって裏千家十一代家元を継承しました。

「近代茶道の祖」といわれる精中宗室 玄々斎

精中宗室 玄々斎は、大給松平家の血筋であるため、江戸に招かれて尾張藩主・徳川斉荘に茶道を伝授するなど、武家社会との交流も深かった人物です。

しかし、明治維新を経て大名家からの後ろ盾がなくなります。新政府は茶道を軽んじて「遊芸」と同類に扱いました。裏千家はもとより、茶道そのものが窮地(きゅうち)に立たされます。

そこで精中宗室 玄々斎は1872年(明治5年)、「建白の書」を政府に提出。茶の湯は遊芸ではなく、伝統的な芸道であることを訴え、認めさせます。これにより、江戸から続く三千家の地位を再確立させました。

また、精中宗室 玄々斎は大名家出身であったため、裏千家の作法にさまざまな改革を実施。精中宗室 玄々斎の代を境に、表千家と裏千家はその違いを明確にしていきます。

さらに、精中宗室 玄々斎は新たな点前を考案します。「大名の子」という出自を利用し、宮家から公家、武家、さらには町人とも交流。玄々斎は、茶道の普及とさらなる交流を図るため、日本全国を旅して回りました。その中で、旅先でも簡易的に茶を楽しめる「茶箱点前」を考案します。

さらにウィーン万国博覧会にて、椅子とテーブルを茶道風に組み上げた「立札式の点前」を考案。立札式は、現在でも茶の湯で外国人をもてなす際に利用されています。

裏千家の改革や現代に通じる点前の考案、茶道の世間的地位の確立などを行ってきた精中宗室 玄々斎。まさに近代茶道の祖といえる功績を残してきた茶人といえるでしょう。

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