武者小路実篤の日本画|文学者でありながら絵画も描くマルチな才能

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志賀直哉らとともに白樺派の作家として知られる武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)は、絵の実作も試みて多数の作品を発表した画家でもありました。書画や絵画に関する知識が豊富で、陶磁器や彫刻作品も収集。美術の著作もたくさん書き残しています。こちらでは、そんな武者小路実篤の生涯や作風をご紹介します。

文学を志した青年時代、「新しい村」の建設

武者小路家は、藤原北家の流れをくむ閑院流の末裔であり、伝統ある公家の家系でもあります。そんな由緒ある家柄に生まれた武者小路実篤(1885~1976)。彼のキャリアは小説家にはじまり、壮年になって本格的に絵画の道に進みます。華麗なる経歴の持ち主です。
東京帝国大学在学時に志賀直哉、木下利玄らと「一四日会」を結成。1910年には志賀直哉や有島武郎らとともに文学雑誌「白樺」を創刊します。小説の代表作には、『初恋』『友情』『愛と死』『おめでたき人』などがあります。
そんな文学に熱中する傍らで、実篤の頭には理想とする社会がありました。ただ思想や語るだけで終わらせず、実際に村をつくってしまいます。それが、1918年宮崎県の田舎に開村した「新しき村」です。
ダム建設の関係で土地を失った後は、今度は埼玉県の山地を使って村をつくります。崇高な理念をかたちにする実践主義者、まれに見る行動家でした。6年足らずで離村するも、この経験は芸術活動に大きな影響を与えます。

40歳にして絵筆をとり、独特の味ある作品を残す

実篤は若い頃から美術への造詣が深く、刊行雑誌にもお気に入りの作品を紹介したり、筆をとって美術論を展開したりするなど、書画や絵画の分野でも高い見識を備えていました。また、絵画や彫刻、陶磁器などを好んで収集する大変な美術品コレクターでもありました。
そんな彼が実際に絵筆を握るようになるのは40歳くらいからです。好きこそ物の上手なれということわざがありますが、絵画が大好きな実篤は喜びを感じながら画を描いていたそうです。薔薇の花やザクロ、富士山、柿、カボチャなど、身近で親しみあるものを写実した作品を残しています。文学者でありながら書画や絵画にも通じた作家の作品は、今日でも多くの人に愛され続けています。

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