日本画家・荒木寛畝|日本を代表する花鳥図の大家

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荒木寛畝は花鳥図を得意とする日本画家です。宮内庁買い上げとなる「孔雀図」など、名作を数多く残しています。今回は荒木寛畝の生い立ちや作風に影響した人物、代表作について解説していきます。

荒木寛畝の生い立ち

荒木寛畝は1831年に田中家の四男として江戸芝赤羽橋に生まれます。田中家は増上寺の行者を勤めている家柄で、寛畝も将来的には奉公に出される身としてさまざまな教養を身に着けさせられます。その一環として、9歳の時に南画家・谷文晁系の絵師である荒木寛快のもとへ入門することになりました。
寛畝は幼少時より絵を描くことを好み、その才能もあったことから両親も奉公に出すことを諦めます。父の死後は寛畝の才能を認めていた師・荒木寛快の養子となり、以降は荒木姓を名乗ったそうです。
1859年に土佐藩主・山内容堂により土佐藩の御用絵師として取り立てられます。山内容堂は荒木寛畝を目にかけ、隠居後は奥向きの一切のことを寛畝に任せたとされます。そのため、寛畝は忙殺され絵をかけない日々が続いたそうです。

遅咲きながら大家として名声を獲得

1872年、山内容堂が亡くなり殉死・出家を考える荒木寛畝でしたが、洋画家の川上冬崖や国沢新九郎、後に日本初の漫画雑誌を創刊するチャールズ・ワーグマンらに学ぶことで洋画家として腕を磨いていきます。
そしてその腕を買われ、1879年に英照皇太后の御影を描くことを命じられ「英照皇太后御肖像」を献じました。1881年には第2回内国勧業博覧会に油彩画である「耕作の図」「養蚕の図」を出品しましたが、1882年の第1回内国絵画共進会には日本画である「花鳥」「古代人物」を出品します。これは、先の「英照皇太后御肖像」を描く際に大きなプレッシャーがかかったことがきっかけで、洋画から日本画へ転身していったとされています。
60歳の1890年に第3回内国勧業博覧会へ出品した「孔雀図」が宮内庁買い上げとなると名声が一気に高まります。3年後の1894年には華族女学校にて教鞭をとり、1898年に東京芸術大学教授に就任、1900年には帝室技芸員へ任命されました。
その後も国内外で作品が評価され、1907年に勲六等瑞宝章を授けられて日本画家としての名声を確固たるものとしていきました。

荒木寛畝が花鳥図を得意とするわけ

荒木寛畝は「花鳥画」を得意とする日本画家です。
幼い頃から画才にあふれ、日本画の基礎を荒木寛快からしっかりと学んだ人物です。また、30代で洋画を広く学んだことから、写実感覚に優れています。それに加えて「孔雀の秋暉」と呼ばれ、荒木寛快と交流のあった岡本秋暉に山水や花鳥について学んだとされています。
つまり、荒木寛畝は伝統的な日本画の技術と洋画の写実性に加え、秋暉の影響による、大胆でありつつも格調高い花鳥図を得意とするようになったのです。荒木寛畝のそうした特徴は代表作である「孔雀之図」にもよく現れています。

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荒木寛畝は遅咲きながら日本最高峰の日本画家として名声を得た人物です。花鳥図を得意とした荒木寛畝の作品はとても人気があります。
「なんぼや」でも、荒木寛畝の作品はもちろん、その他人気作家の日本画を積極的に買取しています。気になる作品がございましたら、ぜひお気軽に査定をご依頼くださいませ。

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