三岸節子|苦境のなかでも絵画への情熱を失わなかった洋画家

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三岸節子は、日本の画壇における女性の画家の地位向上に尽力した洋画家です。激動の人生を送るなかで、数多くの情熱的な絵を描きました。今回は波乱に満ちた三岸節子の人生を振り返りながら、作品の魅力などについてご紹介します。

女性の画家の地位向上に努めた三岸節子

三岸節子は、画壇で女性の地位向上に努めた洋画家です。さまざまな功績が認められ、女性の画家としては初めての文化功労者となります。

1905年、節子は愛県知起町(現一宮市)で織物工場を営む家に生まれました。第一次大戦後に工場が倒産した際、日本画をすすめる両親を説得したうえで洋画家になるために上京を決意したといわれています。

上京後は洋画家の岡田三郎助に師事し、春陽会への初出品で画壇デビューを果たした1925年「婦人洋画会」を結成しました。また1947年には、「女流画家協会」の創立に発起人として参加しています。

当時は女性の自立が難しいといわれる日本の洋画壇で、節子は「婦人洋画会」や「女流画家協会」を通じて女性が活躍できる舞台を築いたと評価されています。

激動の人生のなか移り変わる作風

三岸節子の作風は、激動の人生を送るなか生活状況の変化とともに移り変わっていきます。

1924年に三岸好太郎と結婚し、1930年に長男が誕生しますが、長男出生の4年後に早くに死別。すると残された子どもたちとの暮らしが始まりました。日常生活と作品制作との両立が厳しくなるなか描かれた絵からは、生命力が伝わってくると評されます。

晩年、生活拠点をフランスに移すと作風も大きく変わり、画面は鮮やかな色で彩られました。この時期の絵からは節子の激動に満ちた人生が感じられ、大きく心を動かされたとの声が数多く聞かれます。

日々の生活に追われるなかでも作品制作への情熱を失わなかった三岸節子は、94年の生涯にわたり絵を描き続け、いまでも多くの人々の感動を呼んでいます。

作家の情熱が感じられる数々の代表作

三岸節子の数ある名作のうち代表作としては、「自画像」や花をモチーフにした作品が挙げられるでしょう。

「自画像」は、1925年の春陽会第3回展で初出品・初入選となり画壇デビューにつながった作品です。20歳のときの自画像ですが、その目からは若い女性とは思えないすごみが感じられると驚かれています。

は、節子がよく絵に描いたモチーフです。多くの作品で、花は題名にも使われました。94年の生涯のなかで何度となく描かれた花の絵は、いずれも作家の激動の人生がよく表れているといわれています。

これら以外の絵画も、激動の人生を歩んだ作家の情熱が伝わってくる名作です。そのため、三岸節子が描いた洋画は代表作に限らず高額での買取を期待できます。三岸節子作品をお持ちであれば、一度査定へ出してみてはいかがでしょうか。

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