石川晴彦の掛軸|亡き妻を想って仏画にのめり込んだ画家人生
日本画の傑作を数多く残した石川晴彦。掛軸作品も有名で、買取市場では高額取引の例が目立ちます。美術学校中退、師と仰ぐ画家との出会い、妻との死別。起伏ある人生から生み出される作品には独特の深みがあります。今回は、石川晴彦の生涯や作品の特徴などをご紹介していきます。
一度はあきらめた画家への道
石川晴彦(1901~1980)は、京都出身の日本画家です。大正から昭和にかけて活躍。主に仏画や水墨画を得意としました。
画家を志して京都市立美術工芸学校に入学するも中退。このとき一度画家になる道をあきらめ、音楽家を目指したという逸話もあります。しかし、一度燃えさかった画道への情熱がそう簡単に消えることはありませんでした。入江波高に師事して絵画の基本を徹底的に学び、繊細なタッチのスタイルを武器に創作に励みます。「父母の肖像」などを発表して高い評価を得るも、それに満足せずより新しい画法を追求すべく創作仲間たちと「生作社」を結成。盛んに作品を発表してその名は徐々に世間に浸透していきます。
転機となった村上華岳との出会い
石川晴彦の画家人生にとって、転機になったといわれるのが、村上華岳との出会いです。六甲山麓の村上のアトリエに出入りするようになってからは、その画風にはっきりと村上の影響が現れはじめます。これを境に石川流スタイルを確立し、より自信を深めていくようになるのです。
第4回国画創作協会展出品作「老父」が入選するなど、結果も確実に残します。石川の作品は村上華岳と見分けがつかないといった評もあれば、明るめの色調は村上作品と一線を画すという向きもあるなど、評価は定まらないものの、石川晴彦が生み出す芸術に多くの人々が感銘を受けているのは買取市場の実績からもよくわかります。
妻の死、仏画制作にかける想い
石川にとってもう一つの転機になったのが、1936年に訪れた妻との死別でした。これを機に彼が手がける作品は仏画中心となっていきます。このようなスタイルの変化からも、石川の人生観や人間性をくみ取ることができます。
1956年にはカンボジアのシアヌーク殿下に仏画を贈呈。翌年には奈良県生駒郡宝山寺から多宝塔壁画制作を受注するなど、名誉な仕事をこなすなかでその名はより高まっていきます。1980年78歳で逝去するまで、仏画はライフワークというべき魂の活動でした。
そんな石川晴彦の名による掛軸はやはり高額買取の対象です。「なんぼや」では、石川晴彦はじめ、有名作家の掛軸査定に力を入れています。作者不詳の作品でも査定対象ですので、お気軽にご依頼ください。