千家復興の影の立役者・千少庵の生涯と茶道具に込められた精神

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今に伝わる茶道具が持つ「侘び詫び茶」の心は、千利休が源流となります。その利休の教えをよく理解したのが千少庵です。目立たぬ存在ですが、千家復興に大きく貢献した人物として知られます。今回は、そんな千少庵をご紹介します。

千利休の娘婿で宗旦の父・千少庵

千少庵(1546~1614)は、安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した茶人です。少庵宗淳とも呼ばれ、通称は吉兵衛、幼名は猪之助です。幼い頃に父と死別。

残された母は千利休の後妻に、少庵は養子となります。後に利休の娘婿となりました。利休の娘・お亀(おちょうとも)との間に生まれたのが、千家三代目であり、宗偏流開祖山田宗偏などを育てた千宗旦です。

1580年頃から大徳寺門前にて茶湯者として活動していた記録が残ります。しかし、利休の切腹が少庵の運命を変え、利休七哲の一人である蒲生氏郷を頼って会津へ出奔。氏郷の居城であった鶴ヶ島城で庇護を受けます。

このとき氏郷のために造ったとされるのが、会津若松城に今も遺る「麟閣」です。1594年には、徳川家康や蒲生氏郷らの働きかけもあり帰京。茶道復帰が許され再び茶人としての生活がはじまります。

千家復興に大きく貢献

利休・宗旦と比べると目立たない千少庵ですが、利休没後に千家を襲ったお家断絶の危機は、少庵によって救われたといっても過言ではありません。それほど千家のお家復興に大きく関わった人物といえます。

帰京を果たした少庵は、大徳寺塔頭三玄院の春屋宗園のもとで保護されていた息子の宗旦を還俗させると、早速に家督を譲り、自身は京都西芳寺に湘南亭を建て隠居します。

その後は千家を継いだ宗旦の後見に専念。千家復興の道筋をつけました。利休の切腹で大きく揺れた千家の命運も、少庵の働きに救われた面は否定できません。

千利休との合作も

宗旦に家督を譲った後、士官はせずに茶の湯の普及に尽力したといわれる千少庵。隠退後も利休の遺志を尊重して作品に「侘び詫び茶」の精神を反映させました。

利休がこよなく愛した美学。それは華美を廃し質素簡明に徹する茶道本来の心です。

利休と合作した経験もある少庵には、後世に何を遺して何を引き継ぐべきかがよくわかっていたのではないでしょうか。千家の後継者となった宗旦の生き方が何よりの論拠です。そんな千少庵には現代に至るまで多くの人の心を打つ作品が遺っています。

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