彫金家・蓮田修吾郎|金属造形を開拓し公共のための造形を追求
蓮田修吾郎は文化勲章受章を受賞した近代日本を代表する鋳金家です。金属造形という分野を開拓し、公共のための造形を意識した作品をつくってきました。今回は蓮田修吾郎の生い立ちやその才能、作風や理念について解説していきます。
幼き頃から才能を発揮した蓮田修吾郎
蓮田修吾郎は1915年、石川県金沢市野田町に生まれました。幼い頃から芸術に興味を持ち、7歳の頃に「王様クレヨンの全国児童選抜展」にて入賞するなど、才能を発揮します。
13歳になり、絵画技術を学ぶために石川県立工業学校図案絵画科へ入学。卒業制作の「藤下遊鹿」は御大典記念奨学資金賞を受けました。
18歳には東京美術学校工芸科鋳金部予科へ入学し、翌年に同校の工芸科鋳金部へ移ります。在学中は木彫家・高村光雲の三男で詩人・高村光太郎の弟である鋳金家・高村豊周に指導を受けたそうです。卒業制作の「龍班スクリーン」(鋳白銅浮彫)は第3回実在工芸美術展にて実在工芸賞を受賞しています。
日本を代表する彫金家となる
若き日より才能をいかんなく発揮した修吾郎ですが、1939年から45年まで軍役に就いて満州に行くこととなり、作品制作を行えなくなります。
終戦から帰国後は金沢市に戻り、1948年に郷里の同人らと「R工芸集団」を設立し、作品制作を再開。1934年の第5回日展で初出品した「水瓶」(鋳銅)が初入選を果たします。同年に上京し、さらに意欲的に作品を制作していきました。
1951年第7回日展「鷲トロフィー」(鋳白銅)で特選・朝倉賞を受賞、1953年の第9回日展にて「黒豹鋳銅スクリーン」(鋳銅浮彫)で日展北斗賞を受賞。1957年には日ソ展に招待出品した「氷洋の幻」(鋳銅)がソ連政府買い上げとなり、蓮田修吾郎は国際的にも名前が知られるようになります。
その後も1959年に代表作となる「野牛とニンフ」を出品して日展文部大臣賞、1962年に「森の鳴動」で日本芸術院賞を受賞するなど、その名誉を確かなものとしていきました。さらには1987年に文化功労者へ選出、1991年に文化勲章を受章するなど、蓮田修吾郎は日本を代表する鋳金家になっていったのです。
金属造形という分野を開拓
幼い頃から芸術的センスを発揮していた蓮田修吾郎。高村豊周の指導を受け、同郷の志らとともに「R工芸集団」で活動するなど、技術やセンスを磨きつつ意欲的に作品を制作していきました。
そうしたなかで、壁面装飾的な心象風景の展開を意識し、彫刻的・絵画的な要素を取り入れた「金属造形」という新たな分野を開拓していきます。
「建築と接点を持った造形」「公共のための造形」を理念とし、いつでも誰でも自由に観ることができる、大衆的でありつつ壮大な威厳を持つモニュメントを全国各地に残しています。
例えば出生地である金沢市の金沢駅西口には「悠颺(ゆうよう)」という修吾郎作のモニュメントがあります。「ゆったり舞い上がる」という意味が込められ、その形は見方によってはカタカナで「カナザワ」に見える面白みや地域性があります。
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蓮田修吾郎は金工の近代化への道筋をつけ、「金属造形」という分野を開拓した鋳金家です。意欲的な製作を行い、その作品は数多く残されています。
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