菱田春草の掛軸|斬新な画法を編み出して日本画の近代化に貢献

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菱田春草(ひしだしゅんそう)は、近代を代表する日本画家の一人です。斬新な画法で精力的に創作をこなし、短い生涯でありながら日本画や掛軸を多数手がけました。現在でも美術品コレクターが熱い視線を注ぐ巨匠。今回は、そんな菱田春草の生涯をご紹介します。

橋本雅邦に師事、横山大観らとともに学ぶ

菱田春草(1874~1911)は、明治期に活躍した長野県出身の日本画家です。「落葉」「黒き猫」などの作品が有名で、近代以降の画家としては重要文化財指定作品をもっとも多く残しています。

画家を志して1890年東京美術学校入学。当時の校長が岡倉天心、後輩に横山大観がいました。狩野派の末裔(まつえい)・橋本雅邦に師事した話も有名です。すぐれた先輩後輩に囲まれる刺激的な環境のなかで春草の感性と創作技術は磨かれていきます。

卒業後に母校の教壇に立つも、急進派だった岡倉天心が画壇と衝突して日本美術学校追放となると、春草もそれに続いて辞職。天心が新たな美術を追究すべく立ち上げた団体「日本美術院」創設メンバーに加わりました。春草にとって日本画への新しい挑戦がこのときからはじまったのです。

「朦朧体」と呼ばれた斬新な画法を追求

前衛的で斬新なスタイルを追求した菱田春草。その画法は当時の画壇でまかり通っていた常識を打ち破るものでした。

その帰結として編み出された手法が、「朦朧体」です。アウトラインを描かない無線描法は、当時の画壇の間で批判を浴び、評価の声は少なかったといえます。そんな状況にも春草は己のスタイルを崩さず、朦朧体による作品を次々に発表。作風は徐々に受け入れられるようになります。春草のスタイルが間違っていなかったことは、日本画の近代化に貢献した歴史が証明しています。

38年の短い生涯、大観も認めた異才

朦朧体を確立した以降も春草は画法の追求を続けます。大観とともにインドから英米仏を遊学旅行、パリで開催した個展は好評を博しました。春草の名は世界に届くまでになったのです。

その後も芸術家としての活動が期待された春草でしたが、腎臓病を患い明治44年に帰らぬ人となります。数えで38年の生涯でした。日本画壇にとって大きな損失だったのは言うまでもありません。その腕前は横山大観が自分より上と認めたほどです。

批判にも決して信念を曲げなかった孤高の天才・菱田春草。そんな彼には掛軸の傑作も多くあります。「桜花之図」「春」「冬」「朝日」など、幽玄で雅趣に富んだ作品は今なお多くの人の心を捉えて離しません。「なんぼや」では、菱田春草はじめ日本画家の掛軸買取に力を入れています。気になる作品の価値をお確かめになりたいときは、お気軽にお問い合わせください。

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