中山忠彦~良江夫人を描き続ける洋画家~
中山忠彦は、良江夫人をモデルにした婦人像を数多く描き続ける洋画家です。作品制作の際、良江夫人には衣装として19世紀のアンティークを着用してもらっています。今回は、中山忠彦のこだわりや実際の作品に見られる特徴などについてご紹介します。
良江夫人を描き続ける人生
中山忠彦は、長期にわたり作品のモデルとして良江夫人を描き続けている洋画家です。
1935年、中山忠彦は福岡県小倉市(現北九州市)に生まれました。9歳のとき大分県に疎開すると、当時の県立中津西高校(現中津南高校)に在学中の15歳で県展に初出品し、入選します。
10代半ばで画才を認められた中山が、長くモデルとして描き続けることになる人物が良江夫人です。28歳になった1963年の5月、写生旅行で乗った会津若松の近くのローカル線の中ででの写生旅行中に出会いました。ったといわれています。
1965年3月に30歳で結婚してからは、良江夫人をモデルに数多くの作品を描いてきました。作家自身は良江夫人について「YOSHIEは私の外部にある私の内部です」と語り、二人の絆の強さが分かります。
19世紀の衣装を好んで利用
中山忠彦が良江夫人を描くとき、積極的に利用している衣類は19世紀のアンティーク衣装です。
19世紀に仕立てられたオートクチュールは、特定の人物のために立体裁断されています。普通は、サイズを採寸さしたれた本人の体にしか合わないため、他人には着用できされませんでした。
作家自身の言葉を借りるなら、19世紀につくられたオートクチュールを若い女性が着ると負ける場合があります。衣装を着こなすには、身につけるとき深い精神性や女性としての豊かさが求められるためです。
また、19世紀について「女性が最も美しく装われた時代」との考え方も聞かれました。これらが、中山忠彦にとって良江夫人を描く場合に当時のアンティーク衣装を利用する主な理由です。
多くの作品に見られる特徴
中山忠彦の作品の多くに見られる特徴として、裸婦像の少なさが挙げられます。
最初から裸婦像を控えていたわけではなく、20代の初め頃には描いています。いずれ着衣を描く考えのもと、着衣の下の造形法はしっかり体得しておく必要があると認識していました。
作家自身は、結婚で良江夫人がモデルになってくれたため、自然の流れとして衣装を着た女性の絵が多くなったと説明しています。現在、19世紀の衣装を描くことは一生のテーマになっています。
中山忠彦が19世紀の衣装に身を包んだ良江夫人を描いた婦人像は、いずれも名作です。その他の洋画も貴重であり、買取では高額査定を期待できると考えられます。お持ちの作品があれば、ぜひ買取査定に出してみてはいかがでしょうか。