鹿子木孟郎の洋画|伝統的なアカデミズムを堅固に守り日本に伝承した画家
鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の洋画家です。三度にわたりヨーロッパへ留学を重ね、肖像画を得意としました。今回は、日本の近代洋画史において重要となる画家のひとり、鹿子木孟郎についてご紹介します。
伝統的なアカデミズムを日本に伝承した鹿子木孟郎
鹿子木孟郎は1874年、岡山県岡山市の旧岡山藩(備前池田藩)藩士、宇治長守の三男として生まれました。松原三五郎の天彩学舎で油彩を学んだ後、1980年東京に遊学したが、脚気をわずらい帰郷。1892年に再度上京し、小山正太郎が主宰するの不同舎に入門します。
1900年、不同舎にて同郷かつ同い年の満谷国四郎と出会います。パリ万博を目指し、アメリカ経由でフランス留学を決意しました。その後、パリの「私立美術学校アカデミー・ジュリアン」で、フランス最後の歴史画家といわれたジャン=ポール・ローランスに師事します。ローランスのもとでは、アカデミックな写実技法や画面構成術を学びました。
1904年に帰国。帰国後、満谷らが創立した太平洋画会家(現・太平洋美術会)に参加。黒田清輝らの白馬会に対抗し、ました。1905年、フランス留学中に出会った浅井忠と関西美術院のを創立に尽くします設立。1905年には石井柏亭、小杉放庵らと美術雑誌「平旦」を創刊。翌年の1906年から1908年までには再び渡仏し、ローランスの指導を受けます。対仏中に、サロン・ド・パリで「少女」がアカデミー・ジュリアン一等賞を受賞します。
1908年、帰国後は関西洋画壇の中心人物として活躍しましたが、1915年6月、関西美術院長を辞退。翌1916年から1918年の2年間はには三度目のフランス留学をし、ローランスを師事するとともにエミール=ルネ・メナールにも師事し、制作にのもとで制作に励みました。
1932年、ヨーロッパのアカデミック美術を日本に広く根付かせた功績が称えられ、フランス政府よりレジオンドヌール勲章が授与されます。
アカデミズムに回帰した太平洋画会とは
白馬会を結成した黒田清輝たちは、孟郎らと同じくパリで絵画を学んでいましたが、師事したのはラファエル・コランという画家でした。コランもまたアカデミズムの画家でしたが、印象派の外光表現を好んで取り入れていた人物の一人。同氏の影響を受けた清輝らもまた、明るい外光表現を得意としました。
それに対し孟郎らの太平洋画会は、精巧なデッサンとしっかりとした構成や色調を重視した伝統的なアカデミズムを発表します。明治期における日本の洋画界は、2つの流派が衝突し合い、互いを高めながら発展していきました。
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