佐伯祐三は短い画家人生のなかでパリの街を描き続けた洋画家
佐伯祐三は、パリの街を描き続けたことでよく知られます。30歳の若さで亡くなるまで、多くの名画を生み出しました。今回は、短い画家人生でありながら精力的に作品制作を進めた佐伯祐三の足取りや代表作の魅力などについてご紹介します。
短い画家人生のなかで活躍
佐伯祐三は、短い画家人生のなかで精力的にパリの街を描き続けた洋画家です。
短い生涯を送った画家として知られる佐伯祐三は、1898年に大阪府の光徳寺で生まれました。油絵を描き始めたのは、大阪府立北野中学校に進学した頃からです。
中学在学中に大阪の洋画研究所で学び、中学を卒業した1917年に上京すると川端画学校で藤島武二に師事しました。翌年に東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に入り、卒業とともにパリへ向かいます。
1924年にパリに到着してからは盛んに作家活動を展開し、1928年に生涯を閉じるまでパリの街を中心とした数々の絵を描きました。いずれも名作であり、近年も高い評価を集めています。
パリの風景に見られる独特の筆遣い
佐伯祐三は独特のタッチでパリの風景を描き、「激情的かつ哀愁のあふれる筆致」といった言葉で評されます。
最初のパリ滞在では、里見勝三や小島善太郎と交流を深めるなかセザンヌやヴラマンクに傾注していきました。その影響は、初期作品の随所にセザンヌの画風が感じられることから分かります。
作品制作で大きな転換点になったと考えられているのが、ヴラマンクの批判です。ヴラマンクは佐伯の作品を見て佐伯祐三は、「アカデミズムに染まっているの匂いがする」と痛烈に批判しました。この批判意見を受け、聞くと佐伯はモチーフ選びに強くこだわり始めました。
その後、佐伯の画風はヴラマンク風に傾斜したといわれます。友人への手紙には「自分はヴラマンクを信じ切っている」と記しされ、批判的な意見を積極的に受け入れたため画風は変化したと考えられています。
晩年に目立つ独自色の強さ
佐伯祐三の独自色は、佐伯画家自身にとって晩年となる1928年に目立ち始めました。毎月30点以上の作品を描き、作風からはヴラマンクなどの雰囲気が薄れていきます。
1927年に再びフランスを訪れると、荻須高徳・山口長男と交流しながらパリ郊外のモンパルナスなどでに滞在しながら作品制作に臨みました。余命が少ないなか描かれた代表作は、「扉」「黄色いレストラン」「ロシアの少女」や「郵便配達夫」です。
そのうち「郵便配達夫」については、米子夫人の口から「佐伯はすでにその老人をモデルに依頼し承諾を得てうれしそうであった」と当時の様子が語られています。
佐伯祐三は30歳の若さで他界しますが、多くの絵画を残しました。いずれも名作ばかりであり、洋画の買取では高く評価されると考えられます。洋画の買取を検討中の方は、お気軽に「なんぼや」までお問い合わせください。