矢野鉄山|南画や水墨画の発展に大きく貢献した日本画家

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矢野鉄山は、南画や水墨画の分野で幅広く活躍した日本画家です。さまざまな作品で画才を示し、晩年まで日本画界に大きく貢献しました。今回は、戦前の作家活動とともに、生涯にわたり残した多くの功績などについてご紹介します。

18歳のとき絵の修行を開始

矢野鉄山は、1894年に生まれ、18歳になると著名な画家のもとで絵の修業を本格的に開始しました。
生まれは、かつて愛媛県越智郡にあった波止浜町(現今治市)です。幼い頃から絵を描くことが好きであり、1912年に18歳で上京すると日本画家として知られていた小室翠雲に師事します。
絵の修行を続けるなか1920年の第2回帝展に出品すると、初入選を果たしました。翌年には、日本南画展で1等を獲得します。同展では、この業績により以後16年間にわたり同人としての出品となりました。
1924年に叔父の矢野橋村が大阪美術学校を設立すると大阪へ移住し、同校に入学しています。ここでも絵を学びながら作家活動に励み、腕を磨いていきました。

伊予南画の継承に貢献

矢野鉄山が戦前に残した大きな業績の一つは、伊予南画の継承への貢献です。
江戸時代の1800年代、日本南画のうちでも伊予南画は天野方壺や続木君樵の登場で全盛期を迎えました。幕末から明治初期にかけ南画は全国的に衰退しますが、伊予南画は多くの画家の活躍が見られます。
伊予南画の流れは大正期にも途切れず、1921年の日本南画院創設につながります。矢野鉄山は師の小室翠雲や叔父の橋村とともに参加し、伊予南画の継承に大きく貢献しました。
同院は1936年に解散となりますが、翌年には橋村、菅楯彦や小松均と墨人会倶楽部を結成します。さらに2年後には同じく橋村と乾坤社を作るなど、さまざまな形で日本画全体の振興に寄与しました。

戦後は水墨画の分野で活躍

戦後、矢野鉄山が大きな功績を残したのは水墨画の分野です。晩年には全日本水墨画協会を設立し、この分野の発展に努めます。
1945年に戦争が終わると、日展の審査員を務めるとともに水墨画などを描いていました。作品の画風は、東洋独自の水墨画の特徴をふまえつつ現代的に表現したものと評されています。
作品づくりを続けるなか全日本水墨画協会を設立したのは、画家にとって晩年となる1968年です。多くの絵を描きながらの活動は功績が大きいとの評価につながり、1971年に紫綬褒章の受章となりました。
1975年に81歳で他界するまで、矢野鉄山は作品づくりに限らず多くの業績を残しました。そんな鉄山が描いた日本画は貴重であり、買取でも高評価を得られると期待できます

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