竹内栖鳳は若くして画才を発揮した日本画家|渡欧後に独自のスタイルを確立
竹内栖鳳は、かつて京都画壇を代表した日本画家です。動物画で優れた作品を描くなど目覚ましく活躍し、「東の大観、西の栖鳳」とも称されました。今回は、竹内栖鳳の画才が発揮されたきっかけや、独自のスタイルなどについてご紹介します。
早くから画才を発揮した竹内栖鳳
竹内栖鳳は、本格的に絵を学び始めると、早いうちから画家としての優れた才能を発揮しました。
出身地は、現在の京都府京都市です。1864年、料理屋を営む家庭に生まれます。店の常連客に友禅画家の北村甚七などが見られ、幼い頃から絵画と触れる機会に恵まれていたといわれています。
13歳になると、四条派の土田英林から絵を学び始めました。4年後には円山・四条派の幸野楳嶺が開いた私塾に入り、師事します。入塾した頃から高い画才は認められ、周りから「楳嶺四天王」と呼ばれました。
私塾で頭角を現すと、1883年から京都府画学校(現京都市立芸術大学)の出仕となります。翌年には第2回内国絵画共進会で褒状を受け、以降も数々の出品作が高い評価を獲得しました。
画家として独立しヨーロッパへ
若いうちから著しい活躍を見せた竹内栖鳳は、画家として独立するとヨーロッパを訪れます。
1887年に23歳で京都画学校を卒業すると、8月に結婚しました。結婚相手は、西陣の織物業を営む高山家の長女です。実家の近くに新居をかまえ、画家として独立を果たします。
しばらく教職とともに高島屋意匠部で勤務した後、ヨーロッパを訪れたのは1900年です。パリ万国博覧会の視察を任命されたためであり、およそ半年にわたり各地を旅しながら西洋美術に触れる機会を得ます。
ヨーロッパ旅行の成果は、すぐに新たな画風として表現されました。当時の作品は伝統的な絵画と異なり、京都美術界に新鮮な影響を与えたと伝えられています。
独自の日本画を確立
ヨーロッパから戻った竹内栖鳳は、伝統的な絵に新たな表現技法を取り入れ独自の日本画を確立していきました。
実際の絵画制作では、かつて学んだ円山・四条派の伝統をふまえ、西洋絵画や中国古典絵画の写実性を加味していきます。これらの工夫が、やがて独自の日本画を確立することにつながりました。
その特徴が見られる代表作は、1924年に発表された「斑猫」です。動物を描くのが得意であり、優れた動物画を数多く残しました。精力的な作品づくりは晩年まで続き、1937年に第1回文化勲章を受章します。
日本画に新たな世界を切り開いた竹内栖鳳の絵は、いずれも優れた作品と評価されています。買取においても、動物画をはじめ高い価値をつけられるでしょう。