田能村直入の掛軸|日本画の発展と文化の普及に生涯をかけた画家
田能村直入(たのむらちょくにゅう)は、武家生まれでありながら日本画の道に進んだ異色の画家です。画道の追求だけでなく、幅広く日本文化を吸収し、数々の名作を世に送り出しました。今回は、田能村直入の生涯と功績をお伝えします。
武家出身も、すぐれた画才を発揮して画家に養子入り
田能村直入(1814~1907)は、幕末から明治にかけて活躍した日本画家です。生まれは豊後国岡藩(現在の大分県)。岡藩藩士三宮家という立派な武家の血筋をもって生まれるも、幼い頃より絵画の方面で才能を発揮し、同じく岡藩の画家・田能村武田家の養子となったことが直入の運命を変えました。
直入の才能にほれ込んだ田能村は、大阪に赴いて陽明学者の大塩平八郎に引き合わせます。直入はそこで陽明学を学びました。同時に絵画の制作にも没頭します。1841年、27歳のときに大阪堺で「咬菜吟社」を設立。この画塾に集まった門弟は300人を超えたといわれ、画家を養成しながら新人の発掘を目指しました。
還暦を過ぎて京都博覧会に出品、受賞
幼い頃よりすぐれた画才を発揮した直入でしたが、元々は武家の生まれ。希代の義士大塩平八郎に弟子入りして陽明学の洗礼を受けるなど、画家としては異例のコースをたどります。それだけでなく、儒学や漢詩、茶道(表千家)、東軍流の剣術を学んだ経歴も際立ちます。画人として活動する傍らで、煎茶の普及にも尽力。直入の作家としての根幹は日本画というより、広く日本文化にあったといえるかもしれません。しかしその特異な経験が画家としての幅を広くし、伝統美にふさわしい重厚な作風を築き上げたといえます。
直入63歳にして京都博覧会に自作を出品、見事受賞の栄誉にあずかります。また、天皇の御前にて揮毫(きごう)する機会を得たことも画家としてこの上ない誉れでした。
最後まで後進の指導と文化の発展に尽力
直入の最晩年は、主に後進の指導や団体の設立が中心となりました。私塾南宗画学校を設立、1896年には富岡鉄斎や谷口藹山とともに日本南画協会を設立。これらの活動の根底には画道はじめ文化の発展を願う思いが込められています。田能村直入の生涯は、画人の枠に収まりきれないほどスケールが大きく、偉大なものとして特筆されます。
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