掛軸 谷文晁|日本画、中国画、西洋画を巧みに取り込む多様性
谷文晁(たにぶんちょう)は、江戸時代に活躍した近世画家の一人。大和絵などの日本画をはじめ、北宋画、西洋画など古今東西の絵画のエッセンスを取り入れ、自由で独特な美の創出に挑みました。確かな腕が生み出す掛軸の芸術性は現代でも高く評価されます。今回は、谷文晁についてご紹介します。
日本画、中国画、西洋画をマスター
谷文晁(1763~1841)は、江戸時代後期の画家です。独学で画法を学び、その領域は中国画から日本画、西洋画と幅広く及びました。松平家に仕える武士階級に属しながら、画家に指導者にと、その生涯は起伏に富みました。
文晁の画才は幼少より抜きんでていたといいます。中国の北宋画を学んで繊細な描写のタッチをたたき込むと、狩野派や円山派、四条派といった日本画も貪欲に学びます。それだけでは飽き足らず、今度は西洋画のエッセンスも取り入れることに熱心だったのです。その方法は実物を多く手に入れて独学するという地道なものでした。
幕府松平家近習の画家という異色さ
北宋画に日本画、洋画と幅広く画法を修めた谷文晁。父麗谷が徳川御三家田安家の家臣だったこともあり、自らも田安家に仕えることになるのですが、30歳のときに田安定信(後の白河藩主・松平定信)の近習となります。そんな武家主流の道を歩みながら、画家としても大いに活躍することになります。
「日本名山図画」は、周遊先で描いた風景画をまとめたものです。「石山寺縁起絵巻 第6巻」は、燃えさかる炎を背景に侍たちが勇壮と剣を振るう独特の世界観で、日本画と南画、西洋画の画法を絶妙に織り交ぜています。そんな名品を生み出しながら、画塾「写生楼」を開いて数多くの優秀な子弟を育て上げました。
1829年に松平定信が逝去すると、幕府から「法印」の位が贈られ、その功績がたたえられました。
どんな分野にも果敢にチャレンジした芸術家魂
谷文晁は豊かな才能に恵まれながら、美術を学ぶ姿勢が真摯(しんし)かつ意欲的で、幅広い絵画の技法を吸収して特異な芸術世界を確立しました。山水画や花鳥画といった日本画伝統の自然をモチーフにした作品はもちろん、人物画や仏画の制作にも挑みました。そのようにさまざまなジャンルに手を広げられたのも、古今東西の絵画を積極的に学び、強固な下地があったからでしょう。
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