尾形乾山の掛軸|京焼を発展させた革新的な陶工の絵画

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尾形乾山(おがたけんざん)は京都で活躍した江戸時代を代表する陶工、絵師です。兄の尾形光琳とともに、絵画と焼き物を融合させた革新的な器を生み出すなど、京焼の発展に多大な功績を残しました。今回は、日本の陶磁史を語るうえで欠かせない人物、尾形乾山についてご紹介します。

京焼の祖に師事し乾山焼を完成

尾形乾山は、1663年、京都でも有数の呉服商、雁金(かりがね)屋の3男に生まれます。6歳上の兄は、画家・工芸家として同時代に活躍した尾形光琳です。乾山が24歳のころ父親が亡くなり、遺産を光琳と折半で相続します。遺産を道楽ざんまいで費やす兄とは対照的に、乾山は御室仁和寺の南に習静堂を建てて参禅・学問に励みました。

乾山は、仁和寺門前に住んでいた野々村仁清から、本格的に陶芸を学び始めます。野々村仁清は「京焼の祖」とも呼ばれ、色鮮やかな色絵を得意とした陶工です。近くの鳴滝泉谷に窯を築き、本格的に作陶に励みます。このときの釜が京都の乾(いぬい)の方角にあったため、「乾山」と窯に名づけ、自らの作品も「乾山焼」として売り出しました。

1712年、光琳が江戸から帰ると、乾山は光琳の住む二条丁子屋町に移り住みます。そこで乾山が器を作り、光琳が絵付けをするという兄弟合作が数多く制作されました。こうして乾山焼の名はさらに広まることになったのです。

尾形乾山の掛軸

尾形乾山の陶器作品は、色鮮やかで華やかな絵付けが特徴ですが、乾山は焼き物以外にも、絵画や書などの掛軸作品も多く残しています。70歳になるころに養子に窯を譲り、江戸で本格的に絵を描き始めたという説もあるようです。重要文化財で乾山の代表作「花籠図」も、そのころ描かれた作品と考えられており、現在は福岡市美術館で見ることができます。

そして掛軸もまた兄である尾形光琳と合作しており、兄弟の仲の良さがうかがえます。2人の合作作品は、商売目的とは考えられない遊び心のある作品が多いという印象を受けます。2人はお互いを尊重し合い、影響し合って琳派の美を追い求めていたのでしょう。

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