松本楓湖の掛軸|日本画の伝統を守り日本美術界に大きな影響を与えた歴史画

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松本楓湖(まつもとふうこ)は、幕末から大正時代にかけて活躍した日本画家です。人物画や歴史画で数々の名作を生みだし、日本美術界に大きな影響を与えました。今回は、伝統的な美しい日本画の魅力を広く世に知らしめた画家、松本楓湖についてご紹介します。

明治時代の挿絵界に大きな影響を与えた松本楓湖

松本楓湖は、1840年、常陸国河内郡寺内村(現・茨城県稲敷市寺内)に、松本宗庵の3男として生まれました。幼いころから絵の才能を見いだされ、絵師になるのを反対していた父親もうならせるほどの腕前だったといいます。

14歳のころ江戸に出て、狩野派や琳派、南蘋派などを学び華美な花鳥画などを得意とした絵師・沖一峨に師事しました。松本楓湖作品にみられる華やかな色使いや構図などは、一峨に学んだといわれています。

一峨の死後、17歳で谷文晁の高弟で彦根藩御用絵師・佐竹永海の画塾に入り、5年後には塾頭になりました。その後、尊皇運動に転じて剣術を極め、勤皇画家として知られるようになります。

1865年、再び絵に専念した楓湖は、歴史人物画「前賢故実」を描いた菊池容斎に学び、その画風を継いでいきます。1882年に宮内省から出版された欽定(きんてい)教科書「幼学網要」では、名だたる候補絵師の中から楓湖が大抜てきされました。全7巻62図の挿絵を担当し、一躍その名を世に知られることとなったのです。その後「婦女鑑」をはじめとした読本、雑誌などの挿絵を数多く手がけ、挿絵界に大きな影響を与えました。

敬愛する菊池容斎の歴史画を継承

松本楓湖は師である菊池容斎を敬愛するあまり、容斎の教えを堅持に守り続けました。そのため、「容斎の教えから抜け出せなかった画家」といわれることもあるようです。しかし、一説によると楓湖が容斎の画風から大きく突出しなかったのは、容斎の意思によるもので、楓湖はそれに報いようとしていたのではないかと考えられています。

当時需要の高かった容斎風の絵を描くことは多かったようですが、楓湖独自の画法が感じられる作品がまったくないというわけではありません。現在では再評価され、買取市場でも高い注目を集めています

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松本楓湖は、美術展の審査員などを務めながらも、自身もまた数々の展覧会に作品を発表し続けるなど、生涯現役を貫きました。歴史画・人物画の伝統を守り、世に広めた松本楓湖は、現在その作品が再評価され大きな注目を集めています。もし、不要となった松本楓湖の掛軸がご自宅に眠っていましたら、「なんぼや」の無料査定・買取をぜひご利用ください。

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