三千家の祖・千宗旦|利休以上に追求した侘び茶の世界

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千宗旦は、元伯宗旦とも咄々斎とも称される千家三代目の茶人です。利休の侘び茶を徹底的に追求し、現代に続く三千家の父祖でもあります。千宗旦の生い立ちや彼が目指した茶道のあり方についてまとめていきます。

千宗旦の生い立ち

千宗旦は1578年(天正6年)に、千利休の後妻の子である千少庵の子として生まれたとされています。字は元伯、号を咄々斎とし後年は「乞食宗旦」という異名で呼ばれることもあったそうです。

家督争いから避けるために仏門に入り、幼き頃は大徳寺の僧・春屋宗園禅のもとで修行を積み得度しました。しかし1594年(文禄3年)に千家が再興したことを期に、父・少庵の希望もあって還俗(げんぞく)。祖父・利休の侘び茶を普及することに生涯をささげます。

利休以上に徹底した侘び茶の世界

千宗旦は幼少期から利休や少庵から茶道を学び、大徳寺で禅の修行を積んできました。また、祖父・利休が豊臣秀吉により自刃させられたことから、政治の世界を避けるべきだと考えていました。そうしたことから、生涯士官しないことを心に誓うとともに、利休以上に徹底した「侘び茶」を追求していきます。

それでいて、千宗旦は息子らの就職には熱心さを見せています。長男・宗拙を加賀藩前田家、次男・宗守を高松松平家、三男・宗左を紀州徳川家、四男・宗室を加賀藩前田家に士官させました。

さらに、長男を除く3人の息子たちが武者小路千家・表千家・裏千家を興し、三千家として利休から続く茶の名家である千家を現代まで存続させることができました。

千宗旦の残した言葉

千宗旦は利休以上に徹底して侘び茶を追求し「乞食宗旦」という異名を持ちます。そんな彼は、侘び茶の心を感じるさまざまな名言を残しています。

例えば、晩年になり「茶杓絵讃」にて「8歳から茶の湯を学んでいるのに80歳になったいまも手探りだ」という意味の言葉を語っています。ほかにも「愚か者1000人に褒められないことよりも、数寄者1人に笑われないことを恥ずべきだ」「口切りの茶の湯は三畳敷がよい」「振る舞いはきれいにして物は少なくあるべき」など、茶人・文化人としてはもちろん、清貧であることが人として大切であることを語っています。

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千宗旦は現代も続く三千家の父祖でもあり、侘び茶の大切さを茶道の歴史に刻んだ人物です。そんな千宗旦ゆかりの茶道具はもちろん、さまざまな骨董は「なんぼや」にて査定可能です。茶道具の買取をお考えの方がいらっしゃいましたらぜひお気軽にご相談くださいませ。

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