茶道大衆化の父・円能斎|女性への普及を推し進めた茶人

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円能斎は閉ざされていた茶道の門戸を広げ、特に女性への普及に努めた茶人です。こちらでは、十三代裏千家家元として円能斎がどのようなことを成し遂げたのかご紹介します。

茶人として名を立てると誓った若き日の円能斎

円能斎鉄柱宗室は1872年に裏千家十二代家元・又玅斎の長男として生まれました。又玅斎は1885年に隠居してしまい、円能斎は弱冠15歳にして宗室を襲名し、裏千家十三代家元を継承することになります。年齢はもちろん茶道修業もこれからということもあり、母より指導を受けたとされています。

青年期に東京にて生活をしていた折、財界の実力者である実業家・伊集院兼常から「茶道を諦め学問を志す」ことを条件に3000円(現在の約5000万円)を援助すると勧められました。しかし、円能斎はこれをよしとせず、「茶道にて身を立てる」ことを伝え、伊集院もまたその意気に心打たれてからは裏千家の後援者を務めていくことになります。

その後は門下らとともに茶道の流儀を発展させるため尽力していきます。

茶道の普及に取り組んだ偉業

円能斎は堅苦しいものとして認知されていた茶道を、現代にも続く「習い事」として一般に普及させた茶人です。

茶の湯といえば、江戸のころから主に男性が学ぶものでした。円能斎はそれをよしとせず、女性も茶の湯を学び楽しむべきだと考えます。女学校教育に礼儀作法の一貫として茶道を取り入れ、いまでは裏千家にて恒例となっている夏期講習を始めたのも円能斎です。

また、「小習十六ヶ条」「今日庵日報」の発行・出版により、それまで秘伝・口伝とされていた茶道の作法を誰もが知り・学べるようにしました。

このように、円能斎は伝統にとらわれず、誰もが楽しめる茶の湯を提唱し、茶道の発展に尽力しました。

円能斎の好み物

円能斎は茶の湯を親しみやすく庶民でも学べる礼儀作法や習い事といった形で普及させました。その思想は好み物とされる茶道具にも現れています。例えば、各月の異名や図柄を施した「十二月棗」は季節を問わずいつでも使うことができつつも、風流に楽しめる逸品です。また、改革を進めつつも古流の作法にこだわった円能斎は、利休の流れを汲みつつ独自の感性を入れた国師丸釜も好みとしています。

茶道具だけでなく、広間である「対流軒」も円能斎の好み物として造られました。対流軒は素材のとりあわせや斬新な意匠が印象的で、近代茶道発展に寄与した円能斎ならではの心意気がよくあらわれている広間として、裏千家の遺産として大切にされています。

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円能斎は閉ざされていた茶道という文化の門戸を開いて庶民、特に女性への普及に努めた茶人です。円能斎の好み物たちは実用的で近代的なものも多く、時代の移り変わりを感じさせるという意味でも価値があります。「なんぼや」では、表千家・裏千家の宗匠ゆかりの品はもちろん、茶道具の買取をしております。ぜひお気軽にご相談くださいませ。

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