洋画家・青山義雄|マティスも称賛した優れた色彩表現

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青山義雄は、14歳の頃から画家を志した洋画家です。フランスではアンリ・マティスに鮮やかな色彩表現を称賛され、晩年まで精力的に作品を描き続けました。今回は、青山義雄とマティスとの縁が生まれたきっかけや作品の魅力などについてご紹介します。

画家を目指し学校を中退

青山義男は、画家を目指したいとの思いから学校を中退しました。さまざまな仕事に関わりながら描き続けた作品は、後にアンリ・マティスの目にとまります。

出生地は神奈川県三浦郡横須賀町(現横須賀市)であり、1894年に生まれました。父の転勤で1906年に根室商業学校へ進みますが、画家を志す思いがあり2年後の1908年には学校を中退します。

中退した当時は独学で絵を勉強し、1910年に上京すると翌年からは日本水彩画会研究所で大下藤次郎や永地秀太に師事しました。1913年に画業の継続が難しくなるものの、働きながら作品を描き続けます。

厳しい状況のなか1921年に渡仏を果たすと、1926年にはニースの画廊に預けていた作品がアンリ・マティスの目にとまります。以後は足しげくマティスを訪る。ね、以後、マティスが没するまで師弟として、また、よき友人として交友が続き、戦後もニースなどを拠点に名画を残しました。

フランスでの活動とマティスの評価

青山義雄は、フランスで盛んに作家活動を展開するなかマティスから称賛の言葉を得ました。

1921年に渡仏すると、パリのアカデミー・ランソンやグラン・ショーミエールでデッサンを学びます。同年にサロン・ドートンヌで初入選を果たすと、翌年にも入選しました。

パリでは多くの日本人画家や文化人とも親交を深めますが、1925年に病気療養のため南仏カーニュに移転します。ニースにあった作品がマティスの目にとまるのは、カーニュに移った翌年でした。

マティスは、「この男は色彩を持っている」との言葉で称賛したといわれています。青山義雄は以後もマティスに作品の批評を受け、1952年に再び渡仏した際にはマティスとの再会を果たします。

晩年まで衰えなかった色彩表現

マティスに称賛された青山義雄の鮮やかな色彩表現は、晩年まで衰えませんでした。

青山義雄は、戦後の1952年にまだ渡航が規制される中、マティスにフランスへ招待するという形式の書状を送ってもらい、再びフランスへ。渡仏を果たすとかつて病気療養したカーニュにアトリエをかまえます。渡ると、そしてマティスを訪ねますが、その時師は病床にありました。マティスは青山との再会を喜んだが、2年後の1954年になくなってしまいます。かつて病気療養したカーニュにアトリエをかまえそこから青山は独自の世界を作り上げ、ます。さらに数年後には63歳で運転免許を取得し。、南仏を中心にヨーロッパ各地の取材旅行も開始しました。

その後も1989年まで日仏間を幾度となく往来し、精力的に作品を描き続けます。新作は個展などで発表され、南仏特有の明るい陽光から生まれた名画は「きらめく色彩にあふれた絵」と評されています

青山義雄が描いた絵は、いずれも色彩が鮮やかで魅力的です。洋画の買取では、初期から晩年の作品まで高く評価されるでしょう

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