慶入の陶器|数々の名品を残した近世・楽焼の名工
日本の茶道界において、江戸後期~明治前期は激動の時代と呼ばれています。当時、明治維新や文明開化を受け、茶の湯そのものが低迷。千家十職の一つである「樂家」、ひいては千利休(せんのりきゅう)を流祖とする「千家」も、時代の逆風にさらされました。
今回ご紹介する陶工・慶入(けいにゅう)は、そんな世事をもろともせず、多数の作品を残した樂家の陶工です。同氏の経歴や作風について、くわしくお話します。
茶の湯が低迷した明治時代に活躍
江戸時代後期にあたる1817年。京都の丹波桑田で生まれた慶入は、樂家の養子となりました。その後、京都の楽焼の名家である樂家の十一代を継ぎ、樂慶入(らくけいにゅう)を名乗ります。
慶入が作家として活躍したのは、江戸時代から明治時代へと移ろう頃でした。明治維新などを皮切りに、茶の湯という名の芸道は低迷。あわせて、茶碗や棗(なつめ)といった茶道具の需要も低下しました。
そんな時代において、慶入は茶碗や茶器、置物など、さまざまな作品を制作。主に華族向けの道具をつくり、生計を立てていたとされます。
慶入は非常に長寿であり、明治後半の1902年、86歳で亡くなりました。晩年の作も味わい深く、その自由な生き様を表すような、瀟洒(しょうしゃ)で“はつらつ”とした品が多数あります。
自由で多彩な作風
慶入は多くの作品を残しており、その時々で作風が変わります。一方で、慶入の作品は一貫して、自由な色彩を取り入れる傾向にあります。
たとえば、慶入が40~50歳頃に制作したとされる「赤樂茶碗」は、深緑と橙が入り交じる個性的な風合いの茶碗です。無論、単に奇をてらった色彩を採用しているわけではありません。根底に樂家伝承の高度な成形・焼成技法があるからこそ、自由な作風が成り立つのです。
また、一見シンプルな茶碗であっても、部分的に色を塗りわけるなど、凝った手法を積極的に採用。観る者を楽しませる工夫が、作品の随所に散りばめられています。
晩年まで意欲的に作品をつくり続けた慶入。茶碗に水指、香合や振出に加え、陶工としては珍しい、写し物などの作品も残しています。
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