幕末の傑物・高橋泥舟|幕末の三舟の1人と称された男の名言とは

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高橋泥舟は「幕末の三舟」として勝海舟らと並び称される傑物です。最後の将軍・徳川慶喜の信頼も厚く幕末の動乱期を誠実に生き抜いた泥舟の生い立ちや逸話・名言をご紹介していきます。

高橋泥舟の生い立ち

高橋泥舟は1835年(天保6年)に旗本・山岡正業の次男として誕生しました。山岡家は忍心流槍術の名家として名高く、泥舟も幼い頃からよく修行を行って「神業に達する」と評されるまでに槍術の道を究めていきます。

山岡家に生まれながら高橋姓を名乗っている理由は、母方の姓を継いだためです。高橋家を存続させるため、高橋包承の養子として迎え入れられたため、山岡から高橋姓になりました。

しかしその後、家督を継いだ兄・静山が若くして急逝し、山岡家に男子はいなくなります。そこで忍心流槍術の門下生であった小野鉄太郎(のちの鉄舟)に泥舟の妹・英子を娶らせます。そして鉄太郎を山岡家の養子として迎え入れたのでした。

槍一筋で徳川慶喜の信頼を得た人物

忍心流槍術を学び、海内無双・神業と評されるほどの武人であった高橋泥舟の噂は幕府まで届き、1860年には講武所槍術の師範となります。また、浪士組を再編した新徴組の取締役になるなど、その名を高めていきました。

さらに、一橋慶喜(のちの将軍・徳川慶喜)に随行して上京したり、官軍への恭順を説得したり、従五位下伊勢守を与えられるなど。最後の将軍・徳川慶喜に信頼されて、よき相談役として慕われていたとされています。

高橋泥舟の逸話や名言

高橋泥舟は勝海舟、山岡鉄舟らと並び「幕末三舟」の1人とされています。幕末の動乱期に活躍した人物であることから関連する作品や古書などにも逸話や名言も残されています。

たとえば、勝海舟からは「物凄い修行を積んで、槍一本で伊勢守になった男さ。あんな馬鹿は最近見かけないね」といった評をされています。これは泥舟の真っ直ぐさやひたむきさ、そして努力と比例して高くなった能力の称賛した言葉です。

ほかにも、山岡鉄舟の没後に残った山岡家の借金を肩代わりするために「この顔が担保でござる」と、金のなかった泥舟が金貸しに言い放ったとされています。普通なら相手にもされないものですが、「人を欺くはずがない」と高橋泥舟の人柄や男気を借金の担保にしたという逸話が残っています。

また、「欲深き人の心と降る雪は、積もるにつれて道を失う。」と、過ぎた欲望は人生を惑わすものであり、無欲に実直に生きるべきだという意味の名言も有名です。

高橋泥舟作品の古書・書画、買取します

幕末の動乱期を生き抜いた武人・高橋泥舟は多くの逸話があり、心に響く名言も残しています。晩年は名家の子息としての教養や幕府の要職にあった人生経験などを活かして、書画骨董の鑑定をして過ごしていたそうです。

「なんぼや」ではさまざまな古書・書画などはもちろん、高橋泥舟に由来する骨董の買取を積極的に行っています。ぜひお気軽にご相談ください。

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