中村宗哲とは|茶道具を華麗に彩る職人技術
千家に実力を認められ、江戸時代から今日に至るまでその名を残してきた中村宗哲。長い歴史を持つ名家の作品だけに、茶道具の買取市場では高く評価されます。
自宅に眠らせたままで持て余しているお品がありましたら、ぜひ査定をご検討ください。こちらでは、茶人の間で高名な中村宗哲についてご紹介します。
千家十職の塗師として活躍
「中村宗哲」の誕生は、江戸時代初期にさかのぼります。千家の茶人であり、千宗旦の次男・宗守を養子として迎え入れた吉岡与左衛門が、宗守の家業を継いだことで「塗師・中村宗哲」を名乗るようになったのがきっかけです。
この初代宗哲は宗旦の信頼が厚く、藤村庸軒や灰屋紹益との交流も、塗師としての活動を後押ししました。
中村宗哲は千家十職の一つに数えられ、長い歴史を持つ茶道具の名家ですが、塗師専門となったのは明治時代以降とされます。家督の継承は十三代の現在に至るまで続いており、華麗な塗り絵や蒔絵(まきえ)は今なお健在です。
利休型の標準化に貢献した三代目宗哲
初代の後を継いだ二代目宗哲は「乱菊中棗」などの代表作を残しながら早世。三代目宗哲は幼くして両親と死別した逆境にも負けず、同志の協力を得ながら家業に突き進みます。
若くして茶の湯の修練業「七事式」の制定に携わったのもその意欲の表れです。表千家七代如心斎や裏千家八代又玄斎ら宗匠から信頼を得られたことも支えとなりました。
利休型など、茶器の標準化にも意欲的に取り組みます。代表的な棗の標準化と分類は三代目の功績とされ、当時確立された茶器の寸法と形は現在の中村家にも受け継がれています。ほかにも「利休型12器」や「如心斎判32器」を製作するなど、多様で活発な活動を通して茶器の技術発展に貢献しました。
女性の当主誕生、新しい時代も躍進に期待
十代目宗哲(尼宗哲)は九代宗哲である夫の死・長男の廃業に伴い、九代目夫人が当主を名乗っていた。しかし、千家十職の当主としては正式に認められず。表千家十二代惺斎の命により九代目夫人が家督預かりとなる。多数の好み物を制作するが、を襲名したのは九代目の夫人でした。夫である九代宗哲の頃よりこの時期は茶道茶道の衰退期にあたり、家業の継続も危ぶまれたほど。
しかし家督は絶えることなく次世代へと受け継がれ、十代宗哲の次男であるの十一代目宗哲は戦中戦後の苦境にあるなか、蒔絵をはじめとする名作を数多く残し、京都府文化功労者にも選ばれるなど、大いに家業を盛り立てます。
十二代目を継いだのは十一代の長女。昭和60年、兄たちが家職を継がなかったため、その長女が家職継承者に指名されされました。で、翌年千家への出仕を許され、正式に公式としては初の女性の千家十職当主の誕生となりました。漆器製作にも取り組むなど茶道具に捉われることなく活動の幅を広げていき、工芸作家としても名をはせます。続く十三代目の家督も女性が継承。多くの名器に美しい絵柄を施してきた中村家の塗絵技術は、新しい時代に対応しながらも伝統を守り続けています。
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400年の歴史を誇る中村宗哲の作品は、高値買取が期待されます。茶道具の査定は、全国対応可能な「なんぼや」にお任せください。代表作と呼ばれる一品から人気の作品まで、経験豊富な査定士が拝見します。