最後の浮世絵師・月岡芳年|無惨絵だけでない懐の広い画風
月岡芳年は最後の浮世絵師と称され、激動の時代とされる幕末~明治に「無惨絵」などのセンセーショナルな作品を世に送り出した人物です。月岡芳年の画風や画題の特徴やその作品についてご紹介していきます。
月岡芳年の生い立ちやその生涯
月岡芳年は「最後の浮世絵師」と称され、幕末~明治初期を代表する浮世絵師です。1839年(天保10年)に江戸新橋南大坂町に生まれました。また、商家の子として生まれ京都の画家である月岡雲斎の養子となったという説があります。
12歳で歌川国芳に入門し1865年に月岡の画姓を継承、「血みどろ絵」「無惨絵」などを手掛けるも、強度の神経衰弱に悩まされていきます。しかし作品の製作は続け、当時としては高給である月給100円で絵入自由新聞社に招聘され浮世絵師番付で1位になるなど注目されました。
晩年は神経を病み、視力の低下や脚気などに悩まされ54歳でその生涯を閉じます。
月岡芳年の画風や画題にされたもの
月岡芳年といえば無惨絵に代表されるような残虐で扇情的な作品が中心と思われがちです。確かに江戸川乱歩や三島由紀夫らにより無惨絵の魅力が語られ評価されています。しかし実際は美人画・風俗画・古典画なども数多く作品があり、中でも歌川国芳の弟子として武者絵は評価されました。
月岡芳年は浮世絵だけではなく、さまざまな画風を学び写生を重要視していたとされています。そうした経緯から、奥行きが深く斬新な浮世絵を世に送り出せたのでしょう。
また、構図がそれまでの浮世絵師以上に工夫され、ストップモーションのごとく動きの中を切り取って描かれた作品を数多く遺しています。このことから、その画風は「漫画や劇画の先駆者」であったという評価もされています。
月岡芳年の作品たち
月岡芳年の初期の作品としては無惨絵の「英名二十八衆句」です。血を印象的に表現するために、染料に膠(にかわ)を混ぜて光沢を出すなどの工夫をしています。また無惨絵の代表作といわれる「奥州安達が原ひとつ家の図」の中には妊婦を吊るした絵もあることから、独特の世界観を持っていたことがわかります。
他にも美人画・風俗画の名作として「風俗三十二相」、歴史絵の傑作とされる「藤原保昌月下弄笛図」など、生涯で1万近くの作品を製作して葛飾北斎らに次ぐ多他作家として知られています。
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月岡芳年は無惨絵や血みどろ絵などの現代でも有名な画風はもちろん、武者絵にも傑作があり、まさに最後の浮世絵師と呼ばれるににふさわしい才能を持った人物でした。「なんぼや」では月岡芳年の作品はもちろん、古書などさまざまな骨董の価値を見極めて査定いたします。もし買取をお考えの骨董がございましたら、ぜひ「なんぼや」までお気軽にお持ちください。