大野鈍阿について|岐阜県土岐市が生んだ著名な陶芸家

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大野鈍阿は、美濃焼の産地として知られる現在の岐阜県土岐市に生まれました。子どもの頃から陶芸と親しむ環境に恵まれ、東京に移住すると益田鈍翁の指導のもと腕を磨きます。今回は大野鈍阿の修業時代に焦点を当てながら、作品が絶賛された茶会などについてご紹介します。

生まれ故郷は美濃焼の産地

大野鈍阿は、美濃焼で有名な岐阜県土岐郡(現土岐市)を生まれ故郷とする陶芸家です。岐阜県土岐市は、美濃焼の産地として長い歴史と伝統のある街。いまも当地や周辺地域では、美濃焼を代表する志野や織部、黄瀬戸、黒瀬戸の品々が盛んに生産されています。

そんな恵まれた環境のなかで、大野鈍阿は子どものときから陶芸に親しみました。20歳頃までにはろくろをひいたといわれ、窯をたく職人になっています。

1909年に上京すると品川の大横町で暮らし始め、水焜炉(こんろ)や行平などの雑器をつくっていました。その働きぶりによって益田鈍翁に見いだされ、益田家のお抱え職人として迎えられます。大野鈍阿は益田家の邸宅内に陶磁器釜を築くと、鈍翁の指導のもと、陶芸の腕を磨いていきました。

鈍阿の名は鈍翁の一字から

大野鈍阿は、東京で指導者となった益田鈍翁に由来する名前です。鈍翁の指導を受けるなか、鈍の一字が与えられました。

鈍阿の本名は、大野準一です。希代の茶人として知られる益田鈍翁から益田家で所有する楽焼のコレクションを預けられ、その写しの制作を指示されます。

特に当時の準一が写しを繰り返した作品は、表千家の六世家元である覚々斎の茶碗「鈍太郎」です。その縁もあったためか、この頃に準一は鈍翁から号の一字である「鈍」を与えられ鈍阿と名乗りました。

そもそも鈍翁の号は鈍太郎に由来し、「鈍」の一字は表千家の覚々斎から益田家、さらに大野鈍阿へ受け継がれたといえます。また鈍阿は、自分のつくった茶席にも鈍翁の命名による「鈍庵」を用いています。

鈍翁主催の茶会で絶賛

大野鈍阿の作品は、益田鈍翁が催した茶会で絶賛を受けました。参加者からは、ぜひ売ってほしいとの声も上がったそうです。

1914年に開かれた鈍翁主催の茶会では、鈍阿焼の作品だけが用いられました。一風変わった趣向の茶会で、鈍阿の作品は高評価を得ています。

このとき、実際に提示された値段は5,000円です。あくまで当時の価格であり、いまの価値に換算すると5,000万円ほどになります。決して安い金額ではないことからも、参加者の評価は高かったと分かります。

1917年に鈍翁は東京の益田邸を去りますが、鈍阿は上目黒に新たな窯をつくり、自主的に修行を重ねました。いまでも鈍阿の骨董には高い価値があり、買取では高額査定になる可能性があります。お持ちの作品があれば、ぜひ「なんぼや」にて査定をお試しください。

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