牛島 憲之(うしじま のりゆき)

創作者としての気概を忘れることがなかった牛島憲之

「画家とは名誉ではなく、描き続けることである」という立場を貫いた牛島憲之は、日展に入選後も絵を売らず、また華やかな場に参列することも少なく、とことん美を追求していました。
家族には「絵具とカンバスと、雨風しのげて目と手があれば絵は描けるんだよ」と言い続けていたようです。

牛島憲之は1900年8月29日、熊本市二本木町に地主である牛島米太郎の4男として生まれました。裕福な家庭で育ち、1954年に東京芸術大学の講師を勤めるまで、勤めた経験がなかったといいます。

中学校を卒業したあと上京し、東京美術学校を受験しましたが失敗し、白馬会葵橋研究所に入ることになります。
1922年に東京美術学校西洋画科に入学しました。しかしながら入学するも、在学中はあまり登校せず、歌舞伎に興味を抱き、藤間流舞踊、常磐津など片っ端から見て回っていたそうです。

1927年に東京美術学校を卒業。卒業制作は『自画像』『猿芝居』です。
同年に東京美術学校西洋画科の同級生らで団体「上杜会」を結成。第1回展から晩年まで出品を続けました。

1928年の第9回帝展に『あるサーカス』で初入選を果たします。翌1929年の第10回帝展には『春爛漫』を出品します。その後、第2回聖徳太子奉賛美術展に 『二人像』を出品するも、1930年から1932年まで帝展には落選を続けていました。実力不足を感じ、牛島は1930年から小林 萬吾(こばやし まんご)の主宰する同舟舎洋画研究所に通っていました。

時代とともに変化する牛島作品

牛島憲之は1954年に東京芸術大学講師となり、1959年に助教授に、そして1965年には教授になります。以降、東京芸術大学を定年で退官し、同校の名誉教授になるまで、後進指導にあたりました。

1969年、芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1978年、京都国立近代美術館開催、「牛島憲之の芸術-五十年の歩み」展では、代表作、素描、版画などが出品され、大規模な回顧展となりました。