五姓田 芳柳(ごせだ ほうりゅう)

和洋折衷の描き方を広めた画家、五姓田芳柳

浮世絵と洋画を学んだ時期

五姓田芳柳は、1827年2月1日に、江戸赤坂の紀州藩士である浅田富五郎の子供として誕生します。幼名は岩吉でしたが、その後7回改名し半七としました。1832年、1833年両親と死に別れたため、元佐竹藩士の本多庄兵衛の養子となります。1841年の時に養父である本多庄兵衛が、久留米藩士である猪飼藤兵衛の養子孫となりますが、その直後に猪飼藤兵衛が亡くなったため本多庄兵衛が跡を継ぐことになります。
画家になることを志して、歌川 国芳(うたがわ くによし)に入門して浮世絵を学び始め、その後は5年かけて諸国を遊学しています。この間に長崎にも行き、オランダ絵画に深く感動して、その後は独学で洋画を勉強しています。

日本画からいろいろな手法を混ぜて、絵を描いた時期

1848年久留米藩士である、森田弥左衛門の末娘である勢子と結婚して、子供も5人生まれています。翌年の1849年に日本画家である樋口 探月(ひぐち たんげつ)に入門して、狩野派の画法を学びました。
1857年に藩士を辞めて、仙台藩・吉沢金之助の義弟になり、吉沢家の継承者となります。この後も養子縁組を繰り返し、5回姓を変えたということから、五姓田という姓に変えています。
1870年には画家になった次男の義松が当時住んでいた横浜に移り、外国の船員のお土産として人気が高かった横浜絵を作る工房を建てます。この時五姓田芳柳の作風は、日本画、浮世絵、洋画などの混ざった和洋折衷の描き方をしており、この書き方によって肖像画や風俗画を描いたことで有名になりました。

弟子が多くなったために、1873年浅草に工房を移しています。その当時肖像画も多く描いていますが、同時にジオラマの作成にも力を入れていたようです。同年、明治天皇の御影も描き、後年には昭憲皇太后の肖像画も描いています。

御用掛として絵を描いていた時期

その後、軍医頭の松本良順と知り合いになり、その関係で陸軍病馬院解剖学御用掛として馬の解剖図なども作成しています。
1877年の西南戦争では、軍事病院にも出かけ負傷兵を写生しました。
1884年の4月から4か月間は、新潟学校師範学教場に文部省図画御用掛として赴任して、教師のために図画の講義をしました。1885年には、芳柳の号を次女の夫である子之吉に譲り、自らを柳翁と名乗っています。その後は、悠々自適に新潟や東北などをまわり、1890年にはアメリカに行っています。
日本に帰国してからは、体調を崩し、目の病気にもかかり失明に近い状態になったようです。1892年2月1日に逝去しています。65歳でした。