麻生 三郎(あそう さぶろう)

絵画の本質を求め続けた麻生三郎

戦前から洋画家として活動をしていた麻生は、靉光(あいみつ)、糸園 和三郎(いとぞの わさぶろう)、井上 長三郎(いのうえ ちょうざぶろう)らと『新人画会』を結成して戦時中も作品を発表し続けてきた人物です。

麻生は1913年(大正2年)3月23日に、東京都京橋区本湊町(現中央区湊)鉄砲洲の炭問屋麻生惣兵衛と喜代の三男として生まれ、その環境がに影響され、洋画を志したと述べられています。

本格的にデッサンを学び始めたのは中学生の頃であり、小林 萬吾(こばやし まんご)の設立した同舟舎洋画研究所で勉強をしていました。
1930年に太平洋美術学校選科に入学。そこで松本 竣介(まつもと しゅんすけ)や寺田 政明(てらだ まさあき)らと出会いました。

麻生が作品を発表し始めたのは学校を退学した後であり、デビューは1937年の第一回エコール・ド・東京展でした。それから麻生はフランス、ベルギーを始めとしたヨーロッパの旅を始めましたが、第二次世界大戦の影響ですぐに帰国したようです。

その後1939年に福沢 一郎(ふくざわ いちろう)、寺田 政明(てらだ まさあき)らと美術文化協会を結成。
さらに1943年には靉光、糸園和三郎、井上長三郎らと『新人画会』を結成し、戦中でも精力的に制作を行っていました。
また、翌1944年召集を受けるものの、身体虚弱により兵役不適とされ、すぐに帰されたといいます。

麻生の作品は空襲によりアトリエを焼失し、多くの作品が失われましたが、戦後復興に尽力し、戦後も多くの作品を手がけました。

戦争を経験した麻生

麻生が本格的に洋画家として活動を始めていた頃、それは戦争の真っただ中でした。戦争を経験した麻生は戦後10年もの間、繰り返し妻や娘、そして自分自身を描きました。
代表作は『母子』『母子のいる風景』などです。暗色系に彩られた人物像が作風となっています。

そして1950年代半ばになると、麻生は自分や自分の家族という身近な題材から踏み出し、より一般的な洋画を制作します。代表作は『赤い空』『人』などです。
1960年代に入ると麻生の描く人物は、次第に人から外れた雰囲気を出すようになりました。人間だと確認しにくくなったその絵をじっと見ていると、いずれ取り込まれてしまうような気さえします。

文章家としても活動した麻生は、1958年から1982年まで発行された季刊雑誌『帖面』で、装幀、挿画、編集に携わり、幅広い分野で活躍をしました。