瑛九(えいきゅう)

前衛美術の先駆者 瑛九の生い立ち

挑戦の連続だった青年時代

瑛九は、1911年4月28日に宮城県宮崎市にて眼科医院の息子として生まれます。
本名は杉田秀夫といい、眼科医院という家業を継ぐことができなかったのは、極度の近視だったからのようです。

子供の時から絵画を学び、東京美術学校(現在の東京芸術大学)では絵の描き方を教わりますが、技術ばかりを教えられるということに疑問を持ちます。
10代になりますと、美術評論や写真評論などを発表しています。
この頃、絵画を熱心に作成しては公募展に出品しますが、落選ばかりで葛藤した期間も長くあったようです。

1936年25歳の頃には、瑛九という名前でカメラを使わず印画紙の上に直接物を置いて感光させるフォトグラムという方法で作成された、フォトグラムの写真集『眠りの理由』を刊行し、その他油彩、水彩、ガラス絵など新しい芸術作品に挑戦しています。

また戦後にかけては、油絵とフォト・モンタージュという写真を部分的に使い、他の写真などを切り貼りしたり、二重露光したりして合成された作品を得意としていました。

芸術の自由を追求した時代

第二次世界大戦後は、絵画やリトグラフ、銅版画などの制作を中心に活動していました。
1951年には埼玉県浦和(現在のさいたま市)に転居して、デモクラート美術家協会を結成しました。
デモクラートというのは、ルドヴィコ・ザメンホフが考案した人工言語であり、国際補助語でもあるエスペラント語で民主主義者を意味していて、瑛九がエスペラント語を勉強していたため命名しました。

瑛九は泉 茂(いずみ しげる)や早川 良雄(はやかわ よしお)らと一緒にデモクラート美術協会を設立して、美術界における民主主義活動を東京と故郷である宮崎を拠点に広げようとしていたのです。
美術界における民主主義活動というのは、民主的な美術協会の運営や、無審査、会員、会友、一般参加などの枠を作らず、無審査により全員が会員になるなど、自由に芸術を追求するということです。
その当時は団体展などが主流で、無審査、会員、一般参加などそれぞれの階級があって、その枠内でしか参加できないなど制限が多かったためです。

最後まで芸術家であり続けた晩年

晩年は点描による油彩画や版画の作成などもしています。
点描画法といっても、通常の点描と瑛九のものは違っていて、細かい点を使って何かを表すのではなく、独特で不均等な点や形もさまざまな光や色彩を使い、抽象的に表現するというものでした。

1959年には、大きさおよそ横1.8m縦2.6mの200号という大作を作り始めます。
『つばさ』とつけられたこの大作が、瑛九の最後の作品になりました。

瑛九は、油彩画、銅版画、リトグラフ、写真、また一方では美術評論家としても活躍していましたが、1960年3月10日慢性腎炎のため、48歳でその人生の幕を下ろしています。