有元 利夫(ありもと としお)

光と色を運ぶ画家 有元利夫の生い立ち

恵まれた環境の幼少時代

安井賞を受賞した『花降る日』や『室内楽』 で有名な有元利夫は、1946年9月23日に疎開先である岡山県津山市(つやまし)で、4人兄弟の末っ子として生まれました。その後3か月半ほどで、疎開先から東京の谷中(やなか)に戻ります。

元々有元家では貸家業を生業にしていましたが、戦禍によってほとんどが消失してしまったため、新たな商売ということで文房具店を始めました。
親が文房具店を営んでいるという恵まれた環境でしたので、小学校の頃から油絵を描き始め、画家を目指すというのはとても自然な成り行きだったのかも知れません。

独自の画法を確立した大学時代

1969年には四浪して、東京藝術大学の美術学部デザイン科に入学しました。大学2年の時のイタリア旅行で、本場のフレスコ画やポンペイの壁画などに強い衝撃を受けたようです。
この時有元利夫は、経過した年月分だけ微妙に風化したフレスコ画と、日本の仏画や仏教美術との共通点を見つけ出します。
そして昔から使われてきた手法を理解せずに、新しく創造するのは不可能ということで、岩絵の具や箔(はく)を使うなど、日本の古典美術の技法なども多く取り入れた独特の画風を確立していきます。

ピエロ・デッラ・フランチェスカとの出会い

有元利夫といいますと、ピエロ・デッラ・フランチェスカに大きく影響されたことでも知られています。
有元利夫とピエロ・デッラ・フランチェスカの出会いは大学4年の頃に、古本屋で彼の画集を見つけたことから始まります。

ピエロ・デッラ・フランチェスカは、イタリアルネッサンス期の巨匠ともいえる画家で、彼に傾倒した有元は藝術大学の卒業制作に「私にとってのピエロ・デッラ・フランチェスカ」というタイトルの10連作を描きます。この絵の独特のスタイルが大きく評価され、大学の買い上げとなります。

画家としては短い活動期間の晩年

まるでバベルの塔のような「花降る日」が安井賞特別賞に輝いたのは、母校である芸大の非常勤講師となっていた1978年の事です。それまでは大学卒業後電通にて3年働き、そして1976年に退社して母校の講師となりました。

元々画壇の芥川賞ともいえる安井賞には、特別賞なるものはなかったようですが、その実力が認められて特別賞と言う賞を作ってしまったことでも、その頃には実力の片鱗(へんりん)が見えていたということを表しています。
そして1981年には、「室内楽」で見事安井賞を受賞しています。

画家として描いていた10年に371点の絵画を遺(のこ)して、1985年肝臓がんによって38歳と言う若さで逝去しています。