有島 生馬(ありしま いくま)

文化功労者 有島生馬の生涯

有島生馬は神奈川県横浜市生まれの画家であり、兄の有島武郎(ありしまたけろう)や弟の里見弴(さとみとん)が小説家ということから、白樺派三兄弟と呼ばれています。
小説家である志賀直哉(しがなおや)や、画家の児島喜久雄とは少年時代からの親友であり、『白樺』創刊に参加し、代表作『蝙蝠(かわほり)の如く』を書きました。

学習院に通っていましたが、17歳の時に胸膜炎(きょうまくえん)を患い、休学しました。父の故郷・鹿児島県薩摩川内市で静養中、日本のカトリック僧と出会った事がきっかけでイタリアの芸術に興味を持ちました。
翌年に東京外国語学校(現・東京外国語大学)に入学し直し、イタリア語を勉強。卒業後、藤島武二(ふじしまたけじ)のもとで洋画を学びました。

1905年から1910年までイタリアに留学して絵画の勉強にいそしみ、ローマで学び、その後パリへ移りさまざまな西洋芸術について学びます。
帰国直後の1910年2月、南薫造 とともに『白樺』に同人として加わり、新体詩や小説を発表し、またセザンヌを初めて日本に紹介して大きな影響を画壇に与えました。

その後、活動の場を官展に移し、一水会の創立、日展審査員、理事を歴任。
日本ペンクラブが創設された際、外国語に堪能であったことから、会長島崎藤村のもとで副会長をつとめています。

有島生馬の活躍

有島生馬の活躍は『白樺派』だけでなく、官展系の主流派に抗して二科会・一水会などの新興の画会を創立させ、日本洋画壇を率いた人物としても知られています。

1913年2月、有島生馬は洛陽堂より最初の小説集『蝙蝠の如く』を出版し、この時から筆名を、生馬としました。
秋になると、文展洋画部に二科開設の議を文部省に意見申し立てします。
翌年10月には上野竹之台で第1回二科展に会員として「富士山」、「むきみやの肖像」、「女の顔」、「風景」、「鬼」を出品しました。

さらに一年後の第二回二科展で、「去来の裸婦習作」「今年の裸体習作」を出品。
第三回二科展では「ある詩人の肖像」「切通坂」「朝の山(スケッチ)」を出品するなど、生涯多くの作品を公開しました。
1935年松田文相の挙国一致体制強化を目的とした帝国美術院改組(松田改組)にともない、安井曽太郎(やすいそうたろう)、山下新太郎、石井柏亭(いしいはくてい)らと二科会を脱退し、帝国美術院会員に挙げられます。

そして一水会を結成したのが翌年の1936年であり、二科会を脱会した安井、石井らと、硲伊之助、小山敬三、木下孝則らを加えて活動しました。
少年時代からの友人である志賀直哉は、これらの行動を不可解に思い 、のちに『蝕まれた友情』を書き、60歳を過ぎて生馬と絶交をしたという話です。