刑部 人(おさかべ じん)

積極的な画家活動

刑部人は1906年(明治39年)に栃木県で生まれ、小学時代に父の都合で上京します。幼い頃から絵画に興味をもっており、上京前から画家の川端龍子(かわばたりゅうし)に日本画を学んでいたようです。また、父が教育者であった影響もあります。

東京府立一中時代には同期に作家の高見 順(たかみ じゅん)や、評論家の長沼 弘毅(ながぬま こうき)などがおり、同校在学中に高見順らと廻覧雑誌を創刊していました。
中学卒業の年に東京美術学校西洋画科(現・東京芸術大学)に入学し、和田 英作(わだ えいさく)教室に学び在学中に第9回帝展で『友人の肖像』が初入選しました。1929年の3月に同校を卒業します。

戦後の1946年の第1回日展では『冬の軽井沢』が、1948年の4回日展で『渓流』が特選となり、以後出品を重ねました。

1951年以降は日本橋三越において毎年個展を開催し、計27回にも及びました。
刑部の作風は、和田英作の影響をうけていましたが、戦後は金山 平三(かなやま へいぞう)に師事し、風景画の制作としてともに写生旅行するなどしており、金山の影響をうけていました。 

1976年に70歳を記念し、銀座と名古屋の日動画廊で『刑部人記念展』を開催し、『刑部人画集』が刊行されました。1978年に腎不全のため死去。享年71でした。日本の勲章の一つである、勲4等瑞宝章(ずいほうしょう)を受けました。

金山平三と刑部人

刑部人は東京美術学校西洋学科の在学中に第9回帝展で入選するなど、早熟な才を見せたりもしましたが、その後はヨーロッパ各地で起こっていたフォーヴィズム(野獣派)、キュビズム(立体派)をはじめとする新しい芸術運動の波の中にのまれ、他の多くの画家たち同様に一時的なスランプに陥っていました。

苦しみの果てにたどり着いたのは、流行に飲み込まれず、写実中心の自分の道に帰ることでした。決意した刑部人は、その後に日本の各地を旅し、その風景をカンヴァスに写していきました。

そして刑部は1931年に島津鈴子と結婚し、島津を通して金山平三と出会います。
金山平三は刑部の洋画家の先輩にあたり、第二次世界大戦後はともに日本各地を旅行し数々の風景を写生していました。
刑部は次第に絵筆により細部を精緻に組み立てる表現を超え、ペインティングナイフの反動を利用した生乾きの絵具を重ねていく、アクション・ペインティング風の画風を生み出します。

刑部が日本風景だけにこだわった理由は、生涯を通しても奈良、京都すら満足に描ききれないため、外国へ行く必要性を感じていなかったからのようです。もしヨーロッパに足を運んでも。満足できる絵を描くだけの時間がないと語っていました。