鬼才の画家、岡本太郎の生い立ち
奔放な両親に育てられた子供時代
岡本太郎は、1911年2月26日に、漫画家の岡本一平と小説家の岡本かの子の長男として生まれます。
両親ともに放とうで子供を放任し、母親にいたっては同じ家に愛人を住まわせていたという特別な家庭状況のせいか、小学校に溶け込めず何度も入学しては退学することを繰り返します。
しかし絵を描く事は子供の頃から好きだったようで、慶應普通部を卒業しますと、東京美術学校(現東京藝術大学)に入ります。
ピカソに衝撃を受けたパリ時代
1929年には、父である岡本一平が新聞社の特派員としてロンドン海軍軍縮会議の取材に行く事になり、太郎と母親のかの子、そしてその愛人2人を加えた5人で神戸港を出発、1930年1月にパリに到着します。そしてフランス語習得のために、まずはパリ郊外の中学校の寄宿舎で生活を始めます。
1932年になるとパリ大学ソルボンヌ校で、ヴィックトール・バッシュ教授のヘーゲル美学の講座を受講し、カントの純粋理性批判に影響を受けます。
1936年には国際シュルレアリスムパリ展に出品した『傷ましき腕』が、シュルレアリストの詩人アンドレ・ブルトンから褒めたたえられました。
そして1939年頃に、偶然立ちよった画廊でピカソの『水差しと果物鉢』を見て、心を強く打たれます。そしてピカソを超える事を生涯のゴールとして作成に没頭します。
日本帰国後も熱心に作品制作をした後年
1940年にはナチスドイツのフランス侵入などもあり、日本に帰国。
1942年になると太平洋戦争下にあり、状況悪化ということで召集され、陸軍兵として中国に行きます。
1945年終戦した際は、長安で捕虜として捕らわれていましたが、半年後に解放され帰国しました。戦争によって自宅や作品はすべてなくなっていましたが、東京にアトリエを作り、再び作品作成を始めます。
私生活では1947年頃に出会って秘書にした平野敏子を養女にしますが、実際はパートナーであり50年以上も夫婦のように連れ添っています。
妻ではなく養女にしたのは、子供の頃からその特殊な家庭環境のために結婚そのものに疑問があり、生涯独身でいようと決心していたためのようです。
その後1954年には東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て、現代芸術研究所を設立します。
年をとっても熱心に作品制作を続け、1991年には自分の作品のほとんどを川崎市に寄贈する事を決心します。
そして1996年1月7日、パーキンソン病による急性呼吸不全のため84歳で逝去しています。