熊谷 守一(くまがい もりかず)

熊谷守一『あさがお』 

仙人と呼ばれた画家、熊谷守一

絵がただただ好きだった時期

1880年4月2日、熊谷守一は地主であり、機械紡績事業家であった熊谷孫六郎の三男として岐阜県恵那郡で誕生しました。12歳の頃から絵を描き始めた熊谷は、中学3年で上京します。1897年17歳のとき、絵をやりたいことを父親に告げた際の条件として、慶応義塾に1学期まじめに通ったら好きなことをしてよいと言われ、普通科に1学期のみ通い中退します。そして翌年には、共立美術学館に入学します。

1900年、熊谷は東京美術学校西洋学科選科に入学して、黒田 清輝(くろだ せいき)に師事します。夏休みには信濃や東北などをスケッチ旅行で回ります。しかし、その間には父親が脳卒中で急死していました。
1904年に首席で学校を卒業。1905年から翌年にかけては、樺太調査隊に記録画家としてスケッチをするため、同行。
そして1909年、29歳のときに自画像である「蝋燭」によって、第三回文展で入賞を果たします。しかし1910年には、母親が亡くなったこともあり岐阜県の実家に戻って、日雇い労働の仕事を始めます。このときから実家に滞在していたおよそ5年間で、熊谷はわずか4点の作品しか描きませんでした。
1915年に再び東京に戻り、第二回二科展に「女」を出展、その後も二科展が解散するまで出品を続けました。

赤貧の時期

1922年、44歳のときに和歌山県の名家の令嬢である大江秀子と結婚し、5人もの子どもに恵まれます。この時期スランプに陥っていて絵が描けずにいたため、赤貧ともいえる生活を強いられ、懐中時計の修理などをして糊口(ここう)をしのいでいたようです。次男の陽が肺炎になった時も医者に見せることができずに、亡くなってしまいました。
このとき、「陽の死んだ日」として亡くなった息子を絵に残しています。

1932年には、三女の茜が病死。その後、池袋モンパルナスと呼ばれた、アトリエが多く連なる地域のそばに家を建てます。この家に移ってからは、ほとんど自宅で過ごし、外に出ることは少なかったようです。1947年には、二紀会の創立に手を貸し、同会に加入。また同年、21歳であった長女萬を亡くしました。翌年萬の骨を胸に、焼き場から戻る場面「ヤキバノカエリ」を描いています。1951年には二紀会を退会します。

隠遁生活の時期

1956年に脳卒中で倒れたことがきっかけとなり、その後20年は外出を一切せず、自宅で昆虫や植物などの絵を描きながら過ごします。1967年には文化勲章の内示を受けますが、辞退しています。また1972年には、勲三等叙勲も辞退しました。この頃の熊谷は、ひげを長く伸ばし、その風貌や家にこもりきりで庭の生き物を観察して描くという生活から、仙人と呼ばれていました。1976年油彩絵での絶筆「アゲ羽蝶」を描き、1977年8月1日に肺炎によって死去しています。97歳でした。