海老原 喜之助(えびはら きのすけ)

海老原喜之助『風』

エビハラ・ブルーで有名な、海老原喜之助の生い立ち

フランスの影響を大きく受けた青年時代

海老原 喜之助は、1904年9月13日に鹿児島県鹿児島市で生まれました。鹿児島の中学入学後同級生である吉井 淳二(よしい じゅんじ)と一緒に画家を志して上京し、川端画学校に籍を置きながら、洋画家の有島 生馬(ありしま いくま)に師事します。
そして中学校卒業後は、言語の専修学校であるアテネ・フランスに通いフランス語を習得して、1923年18歳の時に渡仏して藤田 嗣治(ふじた つぐはる)に師事しました。その後、二科展やフランスのサロン・ドートンヌにも入選を果たし若手のホープと嘱望され、1927年他2人の画家とともに3人展を開き『姉妹ねむる』などを出品。これが縁で、フランス画商のアンリ・ピエール・ロシェと契約を結ぶようになります。
そして1928年には、ニューヨークで初めての個展を開いています。

若手の指導に力を注いだ時期

1934年1月に大恐慌などのあおりもあって帰国し、6月には日動画廊にて日本での初個展を開いています。
1935年に独立美術協会会員となって、独立美術展に『曲馬』を出品。海老原喜之助は馬が大好きだったようで、生涯にわたり馬をモチーフにした作品を多く描いています。
1940年には日本大学専門部芸術科美術科(現在の日本大学芸術学部)の講師になりますが、戦争が激しくなった1943年には、その職を辞めて熊本県水俣市に疎開。
1945年終戦になりますと、熊本県人吉市に住む宮崎 精一(みやざき せいいち)の所に移り、作品制作と若手への指導をしていました。

フランスを行き来した後年

1950年からは海老原美術研究所を設立し、積極的に作品を出展の傍ら、フランスに何度も訪れています。藤田の元を訪ねて行くことも多く、藤田が亡くなった際は葬儀手配や後処理なども行ったそうです。
1970年ヨーロッパ旅行しながら画家として作品を描き続けていましたが、65歳の日本へ帰国直前にガンのためフランスで逝去しています。

エビハラ・ブルー

海老原喜之助といいますと、エビハラ・ブルーとも呼ばれた鮮やかな青色をふんだんに使った、雪景色作品のシリーズがよく知られています。

当時フランスでは、藤田嗣治が日本の伝統的な方法を油彩画に取り入れ「すばらしく深い白地(グラン・フォン・ブラン)」と絶賛された美しい乳白色の絵肌を、パリ美術界で褒めたたえられていました。
海老原喜之助も、何か別の方法で日本人であるということを表現する方法を模索していたようです。そして、出来上がったのが水墨山水画の要素を絵画に取り入れ、白と青の2色に強弱をつけることでブルーの色を引き立てる技法に行き着いたわけです。
しかしながら、このエビハラ・ブルーはフランスにいた10年間の後は描かれていないのです。それだけ海老原喜之助にとって、このブルーは特別だったのかもしれません。