アルフォンス・ミュシャ

アルフォンス・ミュシャ『黄道十二宮』

アール・ヌーボーの覇者 アルフォンス・ミュシャの生い立ち

美術を学ぶためにあちこちと移動を重ねた時代

アルフォンス・マリア・ミュシャは、1860年7月24日オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェで生まれました。子どもの頃から絵が得意で、所属していた聖歌隊の聖歌集の表紙を書いたりもしていました。中学校は中退して、父が官史をしていた地方裁判所で働いていました。そして同時にプラハの美術アカデミーに入学するための勉強もしていましたが、入学は認められませんでした。そこで、1879年には、ウィーンに出て舞台の美術工房に入り、助手として働くことになります。その後、その職を失ったことをきっかけに、1884年にはエゴン伯爵に援助をしてもらいミュンヘン美術学校に留学、そして1887年同校を卒業すると同時に、パリに行きます。

ポスターがきっかけで人気を博した時代

1891年にはポール・ゴーギャンと知り合います。
また1894年有名な舞台女優であるサラ・ベルナールが主演の戯曲、『ジスモンダ』のポスターを作成する仕事が舞い込みます。これはミュシャが働いていた印刷業者にポスターの仕事の依頼が来ましたが、あいにく会社のデザイナーが休暇で不在だったため、ミュシャが作ることになります。
このポスター制作は、ミュシャにとって初めての仕事でしたし、その当時のパリで流行だった描き方ではなかったため、印刷会社の社長には断られると思ったそうです。
ところが主演のベルナール自身が大変気に入り、さっそく印刷して貼り出したところ、大人気となりました。また舞台が大成功を収めたこともあって、これをきっかけにミュシャ自身も有名になります。

そして波にのっていたのか、『ジョブ』『メディア』『四つの時の流れ』」など、どんどん作品を出品します。
1910年50歳の時に、故郷であるチェコに戻り生活を始めます。チェコではスラブ民族の歴史について書いた連作である『スラブ叙事詩』の作品制作や、チェコ政府から頼まれたポスターなどを作成しています。

1938年に肺炎にかかったことが元で、1939年7月14日に78歳で逝去しています。

ミュシャの作風

ミュシャは、新しい芸術を表す、アール・ヌーボー様式の先駆けとも言える画家でした。

このアール・ヌーボー様式というのは、19世紀後半から20世紀始めの頃にヨーロッパあたりで評判だった芸術スタイルです。
基本的に草花や木といった植物などを画題にして、曲線を使って幾何学的にしたデザインのもので、絵画だけではなく、鉄やガラス細工、建築にも取り入れられていました。

ミュシャは、曲線を組み合わせたアール・ヌーボー様式を装飾的に使い、そこに女性を描くことで、女性の華やかさ、繊細さなどを表しているのが特徴です。