幅広く美術に関わった画家 石井柏亭の生い立ち
幼い時から才能を見いだされた子供時代
石井柏亭は、1882年3月28日に日本画家の父石井鼎湖(いしい ていこ)と母ふじの長男として東京下谷区(現在の台東区)で生まれました。
父の影響で幼いころから日本画を学び、1892年11歳から柏亭と号して印刷局の工生として彫版の見習い生をしながら、同時に日本美術協会や青年絵画共進会に出品するようになります。
12歳の時に書いた「長年尽忠図」は宮内庁に買い上げられたということを見ても、子供の時から才能があったことがわかります。
1898年に洋画家の浅井忠(あさいちゅう)に師事し、油絵を学びました。
また1900年、日本画家の結城 素明(ゆうき そめい)が中心となって結成された无声会(むせいかい)に参加して、自然主義的表現を取り入れた新しい日本画である、新日本画運動を推し進めました。
その後師事していた浅井 忠(あさい ちゅう)が渡仏してからは、洋画家の中村 不折(なかむら ふせつ)に指導を受け、1902年に結成された明治洋画壇の中心ともいえる太平洋画会にも参加して、洋画を出品しています。
版画に目覚めた青年期
石井柏亭は1904年に東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)の西洋画科に入学しましたが、その時すでによく知られた存在であったようです。しかし、眼病が原因で1年で中退しています。
1907年版画家であり画家である山本 鼎(やまもと かなえ)とともに、美術文芸雑誌『方寸』を創刊しました。
また1908年木下 杢太郎(きのした もくたろう)、北原 白秋(きたはら はくしゅう)など文学者、美術家たちと浪漫派の新芸術について語り合うことを目的とした、「パンの会」を結成します。
パンの会はパリの代わりに東京で、そして隅田川をセーヌ川として見立て川沿いの西洋料理店によく集まっていましたが、ここで彫師の伊上 凡骨(いがみ ぼんこつ)と出会い、それが後の木版の制作につながっていったようです。
1910年12月渡欧し、エジプト、イタリア、フランス、スペイン、ドイツなどに滞在し1912年に帰国。
1913年には「日本水彩画会」を創立、そして1914年には画家である有島 生馬(ありしま いくま)らと新しい美術の発展という目的で、二科会を創立しました。
その背景には画家の登竜門ともいわれた文展の洋画部門の審査への不満があり、その問題点が改善しないので、新たな発展のためにということで二科会が作られました。
長野県美術界にも影響を与えた高年期
1921年に西村 伊作(にしむら いさく)らと文化学院を創立し、そして1936年には二科会から派生した芸術家のための一水会を結成しました。
戦争が激しくなってきた1945年には、一水会の須山 計一(すやま けいいち)の勧めで長野県松本市郊外の東山温泉に、約1年疎開しました。
その後、奥浅間に移り住みますが、そこには帝国美術院会員である石井柏亭の作家や文化人の友人が集まっていたようです。
画家として、そして1949年からは日展運営会理事もしていたため、家を空けることが多かったものの、亡くなるまで浅間温泉に家とアトリエを持ち生活していました。
そして1958年、76歳でその生涯を閉じたのです。