長い歴史を持つ素焼きのテラコッタは、芸術性の高い骨董として人気
粘土を素焼きしたテラコッタには、装飾用のプレートや人物像、庭用の素焼き鉢などさまざまなものが作られていて、有名な作品の中には立体像の夫婦を蓋にした棺(ひつぎ)などもあります。
世界各地で自然発生的に作られた粘土の素焼きですが、イタリアでは文化・芸術として確立し、それらの作品は大変な価値の骨董となっています。
世界のテラコッタ芸術と、日本における意外な関わりについてもご紹介します。
素焼きの陶器「テラコッタ」の価値について
テラコッタという名称について
イタリア語の「テラコッタ(terra cotta)」は、「土 (terra)」を「焼いた (cotta)」という意味であり、素焼きの焼き物を表す名称です。本来は素焼きに限ってテラコッタといいますが、現在では陶器の表面に釉(うわぐすり)をかけたものも同じ仲間とみなしています。
そもそもテラコッタは、粘りのある土を素焼きするだけの単純な焼き物ですから、人類発祥と同期から作られたといっても過言ではありません。陶器の歴史の中でも初期型といって良いもので、地域や文化にとらわれずさまざまなものに使われています。
皿や壺などの器だけではなく、日本では古墳や遺跡から出土する埴輪(はにわ)、また海外では古代ギリシアのタナグラ人形やイタリアの胸像が有名です。また祭祀や芸術性のために作られたもののほか、家屋の屋根などの建築材料としても使われてきました。
進化するテラコッタについて
そもそもテラコッタは、土中から採れる粘土を成形し加熱したものですから、完成時も粘土の色合いに近い状態になります。一般的には埴輪(はにわ)のような赤褐色の色合いを想像しがちですが、実際には白い粘土や、粘土に酸化鉄が含まれていて焼くと黒く変色する粘土などもあり、さまざまな色のテラコッタができています。
硬度は、焼いたときの温度によって変わります。燃焼温度が高いほど、完成した作品は硬度を保つことができます。ただし粘土を高温で焼くほど、割れるリスクを伴うことになります。これは粘土に含まれる空気が膨張し、逃げ場を失った結果です。
また、粘土に含まれる水分量も関係してきます。陶器は燃焼の収縮率が約10%といわれていて、成形したサイズが大きくなるほど割れる確率が高くなります。そこで割れを防ぐために、内側を空洞にして粘土内の焼きムラをなくす技術を発見します。
作品全体を粘土で固めるのではなく、「中空」にして成形することで割れを防ぐことが分かり、やがて大量生産できる型抜き技術へと進歩していくことになります。
テラコッタの制作方法について
ゴミや木の根、石などを取りのぞいた良質の粘土を、成形して焼き上げたものがテラコッタです。加工するときの粘土は、柔らかく細工がしやすいため、さまざまな形に作り上げることができます。形が整ってから細かな彫刻を施せるのが、テラコッタの特性といえます。
一方で焼きあがったテラコッタは非常に硬くなるため、彫刻を施すのには向いていません。それだけに、焼く前に彫刻などすべての細工を済ませておくことが大切です。焼きあがったテラコッタは彫刻による付加価値がつき、さまざまなジャンルのものを作りだすことができます。
素焼き以外に釉を塗る方法があります。素焼きのテラコッタ同様に、良質な粘土を成形して彫刻を施します。十分に乾燥させてから焼き上げ、素焼きのテラコッタが完成してから、彫刻した文様に色付けして際立たせる手法です。
テラコッタの多くは装飾用の陶器や建築材料となりますが、価値ある骨董の観点からは芸術性が高い人体像や仏像が人気となっています。また骨董市場では考古学上の古い年代物もありますが、その価値の判断には鑑定書などの確認が必要となります。
長い歴史を持つテラコッタの起源と、日本での確立
テラコッタの起源について
古代から、粘土を固めて焼く「素焼き」は行われていました。テラコッタといわれるようになったのは、それを語源とするイタリア語圏においてです。
イタリアでは、新石器時代にテラコッタを作っていたことが分かっています。その後、古代ギリシアからローマ文明を経て、中世ルネッサンス時代へと技術の進歩を加えながら、テラコッタの制作技術は受け継がれていきます。
生活に必要な壺や皿、住宅の屋根などに使われたことから、生きていく上で切っても切れない必需品となっていきます。また柔らかい粘土で成形できることから、さまざまな形を表すことができるため、必需品だけではなく神を表すシンボリティックな像など、宗教祭祀にも使われるようになります。
骨董の価値を導く彩色のテラコッタ
世界中で「テラコッタ」と認められるほど人気の品となったのは、そこに彩色と彫刻を施すようになってからです。本来は素焼きの陶器でしたが、生活様式の高まりを受け、徐々にカラフルで繊細な文様を備えるようになります。
「大ギリシア」として一大勢力を誇ったギリシア時代、イタリア圏中部を中心にエトルリア人と呼ばれた民族が、テラコッタの技法を格段に発展させます。今もなおその技術は現代に受け継がれていて、骨董としてのテラコッタの価値を決めるときの指標のひとつとなっています。
ただしエトルリア人については今も未解明の部分が多く、遺跡からさまざまなものが発掘されていますが、肝心の言語が分かっていません。残された多くの書物も解明されておらず、テラコッタの技法も完成品からの推測といわれています。
日本におけるテラコッタ
日本でもテラコッタは縄文時代以前の遺跡から発掘されていて、弥生時代以降も素焼きの器は生活必需品として常用されていました。当初は焼きの温度が低く、粘土を天日で乾かしてから、火桶(ひおけ)の灰の中に入れて焼き固めるといった技法がとられていたようです。
やがて大陸から窯焼きの技法が伝承され、さまざまな形のテラコッタが作られるようになります。さらに技術は進化し、大量生産方式に対応する型枠が用いられるようになります。現在でも鉢植えの鉢は、人気の品となっています。
また骨董の品としては芸術性の高い人物像などが有名で、特にテラコッタの第一人者といわれる木内 克(きのうち よし)は、日本に本格的なテラコッタを根付かせた人物です。ただ木内以降の作家がテラコッタに取り組んだのは、その芸術性にひかれたとばかりはいえません。
第二次世界大戦に突入し、彫刻の主流であったブロンズは解体され鉄砲の玉となり、作家の多くは木彫か素焼きのテラコッタを選択するよりなかったわけです。戦後「表現の自由」が確立するまでのテラコッタ作品群は、骨董の価値がある希少性を備えたものばかりとなっています。
骨董として価値のあるテラコッタの特徴
注目される古代の作品
まだ窯焼きの技法を持たない初期の頃にテラコッタを作るには、成形した粘土が乾いてから焼いた灰の中に投入して焼きを入れたため、800度から1000度程度の低温だったと考えられています。
高温で焼いたものほど硬度があるため、低い温度で焼いたテラコッタは割れやすいものでした。ですから初期のものほど壺や皿は肉厚で作られていて、高温で焼ける窯焼きができるようになってから、徐々に肉厚の薄い器ができるようになっていきます。
同時に成形技法にも変化が生まれます。当初は木の枝で引っかいて模様をつけたり、縄の目で跡をつけたりして装飾していましたが、幾何学的な模様や絵などを入れるようになり彫刻技術が発達していきます。
やがて器としての機能性と同様に彫刻技術が評価されるようになって、芸術性の高い製品を作るようになります。すでに発掘されている遺跡や古墳などからは、縄文式土器や弥生式土器、また埴輪などが出土されていて、それらが進歩していく過程を確認することができます。
なお骨董としてのテラコッタは、このような歴史的な品物も高い評価を受けますが、もう少し年代が進み芸術性の高い人物像などの作品が注目されています。
テラコッタの骨董の価値を決めるポイント
テラコッタを骨董の側面から価値をはかりますと、芸術性と希少価値が重要なポイントになってきます。装飾作品や人物像などは展示または鑑賞用の美術品としての評価を受けますし、あわせて継続的に資産価値として高まることが大切なことになります
年数と作者
骨董とは、美術的価値や希少価値のある古美術品です。骨董の場合には100年以上経過すると「古いもの」と評価しますが、テラコッタは年代による希少性よりも作品としての質が重要となってきます。特に有名な作家の作品であれば、その価値は増大します。
色合い
また素焼きのテラコッタと釉を塗ったテラコッタでは、骨董としての評価が変わることがあります。特に器などの作品の場合には、彫刻技術とともに彩色が評価の重要なポイントとなり、また素材(粘土)の色合いなども勘案されます。
粘土
テラコッタは陶器ですから使われる材料、つまり粘土の質は評価をする上で重要なポイントになります。燃えるような赤褐色、落ち着いた灰色などさまざまな地の色合いは粘土によるものです。また素焼きの場合には強度も大切なことから、粘土がどこで産出されたものを使ったかは重要なポイントとなります。ちなみに、イタリア・トスカーナ地方で産出される粘土インプルネッタはブランド名ともなっていて、その中でも「ガレストロ」という粘土が最高峰といわれています。
日本国内外の有名なテラコッタについて
海外で有名なテラコッタとは
古代のテラコッタは3次元的な立体像ではなく、2次元的な平面形のものでした。壁や床などに張り付けられる装飾的な役割をしていて、その中には当時の生活様式をうかがい知ることができる、歴史的に貴重な資料としての役割も兼ねて残されています。
初期のテラコッタ制作の技法は、その後に文化的に繁栄するヴェネツィアを始め、ヨーロッパ各地で根付くことになります。建築物の壁やドアに収められた家紋など、装飾の多くは粘土を彫刻し素焼きにしたテラコッタや、同じく彫刻を施した天然の大理石で造られるようになります。これらはシンボルとしての役目もありましたが、波及したのは家を守護するという民間信仰によるものだったようで、日本でも沖縄(琉球王国)のシーサーや石敢當(いしがんどう)に通じるものがあります。
時代は進み14世紀以降になりますと、美術的な芸術作品が多く作られるようになります。特にイタリアやドイツで人気を博し、往時のものではドナテッロやルカ・デッラ・ロッビアなどの著名な作家の作品が高い人気を誇り、今も骨董市場では価値ある品として高く評価されています。
世界で最も有名なテラコッタの像といえば、ルーブル美術館に所蔵されているタナグラ人形といわれています。紀元前4世紀ころにギリシアのタナグラという町で、テラコッタで作られた像です。良質な粘土は型枠で形を作り、細部は彫刻で仕上げます。その上からの着色は、焼く前と焼いたあとにそれぞれ施して完成させます。
ルーブル美術館で所蔵している多くのものは20cm程度ですが、有名な「Lady in blue」と名付けられた女性像は33cmと群を抜いた大きさのものとなっています。ちなみに、ルーブル美術館所蔵のものでも20%は贋作といわれるほどで、市中にもたくさんのタナグラ人形が流通していますが、骨董の価値を確かめる前にしっかりとした鑑定が必要となります。
国内で有名なテラコッタ
大正期から昭和期まで日本美術界でテラコッタを確立した人物といえば、木内 克といわれています。日本で彫刻を学んでからロンドン・パリで技術を習得し、帰国後に次々と傑作を生みだしていきます。
彼は「私の作品は世の中にみせようという必要品でなく真実を表現しようとする未完成な実験品です」という言葉を残しており、常に進化する作品を求めていたようです。残された作品は、骨董市場では常に価値ある品として高い評価を受けています。
その後、日本国内で数名の作家は生まれますが、ブロンズ像を中心とした芸術作品が流行したこともあって、やがてテラコッタを中心に制作に取り組んでいた作家は消えていきます。一旦は消滅したかと思われたテラコッタ技術ですが、救世主が現れます。
テラコッタを専業とする企業が登場し、多くの商用作品を作ることになります。現在ではINAX(イナックス)の商標で有名となった大企業LIXIL(リクシル)ですが、旧名「伊奈製陶」でテラコッタを建築材として作る会社として起業し大成功します。
現在では創業時からの思いを後世に伝えるため、一文化活動としてNAXライブミュージアムでテラコッタパークを開設しています。この成功もあってテラコッタ作家は増えて、しかも既往の作品までもが注目を浴びることになり、骨董市場では価値のあるカテゴリーとして高い評価を受けています。