仏像

希少価値の高い仏像に彫刻が施された骨董

仏教と仏像の関係性を考察し、仏像の意味合いを確認します。その上で信仰上の偶像である仏像と、骨董としての芸術的な価値をもつ仏像の違いを説明します。
また仏像の種類や作り方、材質などもご紹介し、さらには骨董として価値ある仏像について要点をしぼってご案内します。
最後に日本国内の仏師・仏像彫刻家をご紹介することで、国内の仏像制作の流れがわかるようになります。

仏陀の崇拝する仏像とその価値について

仏像について

一般的に「仏像」とはブッダを象徴する偶像のことで、「仏教」を信仰するうえで礼拝の対象とするものであり、仏教の教義(内容)を伝えるためのものです。

もともとブッダが教えた初期(原始)仏教には、仏像などを拝む偶像崇拝の教えはありませんでした。ブッダが亡くなってから(入滅後)、慕っていた弟子たちが「舎利塔(しゃりとう)」を建てたのが仏像の始まりといわれています。

舎利塔はブッダの骨を納めたものですが、その後「五重塔」や「墓石」にかわって信仰を支え、同時に作成した「仏像」を偶像として拝していたわけです。つまり仏像はブッダの化身、または教義を信仰する対象として位置付けたものといえます。

仏像の種類

仏像は信仰の対象物であると同時に、信仰には関係なく芸術的な価値として評価を受けることがあります。もともと仏像は表面的な形に対して拝むものではなく、内面的な拠所(よりどころ)つまり安心感を求めるためのものですから、本来はサイズやデザインまたは年数などでその価値を評価されることはないものです。

ただし仏像である以上、教義や宗派の決まりごとなどが守られていることは重要です。基本的に仏像と呼ばれているものは、如来・菩薩・明王・天部・そのほかの5種類の像によって表されています。これは仏としての役割や位によるもので、骨董としての価値を左右するものではありません。

仏像の技法

仏像は厳密に考えると「仏陀(ぶっだ)を表した像」ということになりますが、初期(原始)仏教を経て、広義の教えを説いた大乗仏教へと進化(変化)したことで、仏陀の化身がたくさん生まれたとされ、それぞれが信仰の対象となります。また仏教以前の神も神仏習合などによって仏像となっているため、いまではさまざまな仏像が残されています。

仏像は大きく分けて、2つの技法で作られています。
1つ目は、盛り上げて形作る粘土や石こうなどを材料にした「塑像(そぞう)」、また漆(うるし)と木粉を混ぜて盛り上げて形作る「乾漆造(かんしつぞう)」などがあり、金属造も同じ技法の仲間になります。

2つ目は、刻みを削り込んで形作る技法で、「木造」や「石造」など、すでに形のあるものをいかして作ります。1つ目の盛り上げ技法も2つ目の刻み込み技法も、細部は彫刻によって成形することになります。

仏像の材質

仏像は大きく分けて、5つの材質で作られています。

1.塑像(そぞう)

粘土や石こうを使った像です。木材で基本芯を作り、そこに縄を巻いて一定の太さ(厚み)を作り、上から粘土などを盛って作る技法で天平時代に作られたものが多く残されています。

2.乾漆像(かんしつぞう)

漆(うるし)を使った像です。塑像と同じような技法で像のあらましを造り上げ、その上に麻布を貼り、上から漆で固め乾燥させます。その後内部をとりのぞいて、木材などで内から補強します。

3.金銅仏(こんどうぶつ)

青銅(ブロンズ)などで鋳造した像です。最初に型を作り高温で溶かした鋼材(青銅の他に金・銀・鉄などがあります)を流し込み、冷えてから表面を磨き彫刻を施します。

4.木彫像(もくちょうぶつ)

木を材料にした像です。1本の木から作る「一木造り」と、数本を組み合わせる「寄木造り」があり、平安初期までは一木造り、それ以降は寄木造りが多くなります。

5.石像

石を材料にした像です。海外のモアイ像やスフィンクスのような自然石を削って作る像ですが、屋外の置かれていることが多いため、雨が多い日本では風化してしまい、残されているものは数が少なくなっています。

日本国内外における仏像の歴史について

仏像の起源~発祥の地における仏像の歴史

仏教を開いたのはお釈迦様ですが、釈迦という名称はもともとシャーキャという国の名前を漢字に当てたものです。そのシャーキャ国の皇太子がお釈迦様となる「ゴータマ・シッダールタ」という人物で、厳しい修行によって開眼することができ仏陀(ブッダ)と呼ばれるようになります。

彼の教えを受けた弟子たちによって、後年「仏教」が興されます。つまりお釈迦様が亡くなって(入滅)から作られたのが、仏教なのです。
また経典(お経)は生前ブッダが各地で説法し話したことを、500人の僧が集まって(結集)文字に記したものです。当初、釈迦の教えは口授(口で伝える)でしたが、内容が多岐にわたり全容を理解することは難しいため、文字によって経典としたとされています。

ところが各地に釈迦の弟子(説法を受けたもの)がいたため、それぞれの弟子への釈迦からの教えが解釈(宗派)への違いとなります。
またインド(釈迦国は現ネパールといわれています)から中国に伝来するときに、中国語に翻訳される段階で意訳されてしまい、翻訳家の考え方が加わったことでさらに複雑な教義となっていきます。

たくさんの経典があるなか信仰する者たちにとっては、お釈迦様を表す像を拝むことは共通に深甚を表すために必然だったのかもしれません。なお仏像が初めて制作されたのは、早くてもブッダの死後400年以上たってからといわれています。

仏像の起源~日本の仏像の起源

日本における仏像の起源は、ハッキリとは解明されていません。諸説ありますが仏教公伝が538年といわれていますので、仮にそれより以前に私的信仰があったとしても、400年代以降に入ってきたものといわれています。

そもそも中国語翻訳の第一人者は、初代三蔵法師の鳩摩羅什です。日本に残るもっとも古い経典は、402年以降に羅什がバーリー語から中国語に翻訳したものです。経由する朝鮮半島の仏教事情は、高句麗に伝来したのが372年、日本と関連の深い百済が国民に向けて布告したのが392年、新羅は400年代に入ってから伝来したといわれています。

つまり、日本に仏像が私的に持ち込まれたのは400年代に入ってからということになりますが、ハッキリしたことはわからないため、仏教公伝の538年を定説している理由はここにあります。ちなみに百済王が日本の天皇に仏像を贈ったのは545年9月という説があり、仏教公伝自体にも、もうひとつの年が存在しています。

仏像の起源~中国でアップグレードした仏教

もともと仏教は「救われること」についての教えであり、輪廻(りんね)から解脱することで安らぎを得られることを目的とした信仰です。ですから当初は仏像を崇拝する必要はなく、偶像崇拝の習慣もありませんでした。ところが中国に渡るころになりますと、往時の権力者たちは「不老長寿」を求めて仏教を渇望するようになります。

仏教は「安らかな未来(来世・浄土)」をかなえたものですが、中国の権力者は都合よく「不病不老不死」と解釈して推進していくことになります。やがて教義の内容よりも経典をすべて備えること(一切経)が主体となり、同時にすばらしい技法で作られた仏像制作などを布施(寄進)することで、不老長寿を手に入れたいと信心し布教啓蒙に励むようになります。

仏像の起源~日本における仏像

日本書紀によると、538年百済聖明王から「金銅釈迦仏像」と「経典」などが天皇に献上されたと記されています。つまり仏教公伝を始まりと考えたとき、日本の仏像の始まりは金銅釈迦仏像ということになります。

最初の仏像が青銅製だったこともあり、ブロンズの鋳造技術がもたらされ、国内では大仏が鋳造されます。最初の仏像は609年に造られた「飛鳥大仏」で、蘇我氏の寺「飛鳥寺(あすかでら)」にあります。

その後「奈良の大仏」、「阿波の大仏」「鎌倉大仏」など数々の巨大な鋳造物が作られましたが、同時に本尊となる仏像制作も盛んになっていきます。また大型の仏像はブロンズ像を代表とする鋳造技法だけではなく、寄木造りの木造技法も盛んになっていきます。

骨董として価値のある彫刻が施された、仏像の特徴

骨董の価値でみる仏像

仏像を骨董の観点から価値をはかるとき、市場の動向は非常に重要となってきます。たとえば奈良の大仏のような巨大な仏像が市場に現れても、需要つまり買い手は少ないはずです。すなわち売れるモノに値が付くのが骨董ですので、どんなにすばらしい品であっても値が付かないモノは骨董の価値が低いということになります。

骨董としての価値がある仏像の代表格は、金(ゴールド)で作られた貴金属製のものです。資産価値のある金を使っていることから、仏像としての価値に貴金属が付加された評価が考慮されます。つまり材質による価値が骨董の価値を引き上げていることになります。

同じようなものに、宝石などが散りばめられた仏像があります。仏像はさまざまな道具を持っていたり、台座の上にいたりと、宝石を散りばめ飾ることができます。特にお釈迦様をあらわす「釈迦如来」「阿弥陀如来」には、額に第三の目といわれる「白毫(びゃくごう)」があり、大きな宝石が埋め込まれていることがあり、やはり資産価値を高めることになります。

あとは一般的な骨董と同様に、時代背景と作者によって価値に変動があります。特に日本古来の品や骨董として中国大陸から入ってきた仏像は、しっかりとした鑑定をすることで価値を見いだすことができます。

中国製と日本製の仏像

仏像の骨董価格を知るには、新品の価格を知ることが大切です。一般的に同じサイズで同じ材質のもの、しかもデザインも同質の仏像だったとき、国内産が高く中国産は低く設定されていることが多いようです。

これは芸術的な価値や資産的な価値が反映したものではなく、人件費や原材料費など物価によるものが大きな要因になります。また日本と中国では仏像市場の流通経路の違いも関係します。

もともと日本の仏像は、お客様から注文を受けて制作する受注生産方式ですので、産地直売タイプのような流通が基本となります。一方で中国の輸出製品は、卸売業者を通して販売する量販タイプになります。

低価格を維持するために粗削りまでは機械で行い、細部の彫刻は手作業で行う二段階工程で時短を計ってコスト削減に努めています。もちろん完成した手掘りの国内産と、二段階工程の中国産の仏像に違いを見つけることはできません。

日本製の骨董仏像の場合、「仏師」のなかには僧籍に入って修業の一環として木像や石像を彫り上げていることがあります。作品のなかには「一点もの」の希少性と、精魂込めた力作が出てくることが多く、骨董の評価も高いことが多いようです。

ただし日本製であっても商業的に造られた仏像の場合には、毎回精魂込めて作ることは難しいものです。結果として技術とデザイン、材質で高い評価を受けることが多く、その鑑定は専門性の高いものとなります。

骨董の仏像の適正価格は市場が決める

一般的に新品の仏像は信仰の対象として造られ、骨董の価値が認められるころになると芸術作品として評価されます。新品は制作者によって自由に設定できるもので、定価もしくは基準価格は定められていません。ですから、新品の仏像であっても芸術的な価値観や著名作家の作品などは、骨董と同様に付加価値が加味されて価格は決定されていくことになります。

一方で骨董の価格は、買い手(市場の需要)がいることが前提となります。ですから、新品を買うよりも中古のほうが「安い・高い」と考えても意味はなく、市場のニーズによって価格は決まることになります。つまり、骨董の価値はニーズによって決まるものなのです。

同じことは絵画にもいえることです。例えば名画「ムンクの叫び」の最終落札価格は約100億円、ボール紙に描かれた絵の値段としては世界最高ですが、制作した時はこんなに高額になるとは思わなかったことでしょう。絵画と同じように、骨董の仏像も初期の価値をはるかに超える評価を受けることもありますので、まずは市場価値を確かめることが大切です。

つまり新品の仏像には定価が設定されていないため、第三者に分りやすい価格設定と透明性が求められている一方で、芸術的な価値が高い骨董の仏像は、作品がもつ希少価値や歴史的価値を考慮して市場(買い手)が決めているわけです。

仏像の場合には作り手(売り手)が価格設定するのではなく、あくまで骨董市場における需要度、つまり買い手によって適正な価格が決定されることになります。

日本国内の有名な仏師・仏像彫刻家

国内で有名な仏師

最初に仏像を作った「鞍作止利(くらつくりのとり)」

日本最古の大仏像がある、飛鳥寺の釈迦如来坐像を制作したのは「鞍作止利」という渡来人だったといわれています。法隆寺にある国宝釈迦三尊像も、鞍作止利作といわれています。

生涯12万体を彫った「円空」

江戸時代前期の修験僧であり、仏師としてはさらに有名な円空。すでに伝説と化している「生涯12万体」のうち、現在5300体以上が発見されています。
いわゆる円空像は北海道を始め、全国各地にあるといわれていますが、愛知で3,000体、岐阜で1,000体以上発見されていて、これからも新たな発見の可能性があるとされています。

円派 最後の巨匠「明円」

1199年、鎌倉時代初期まで活躍した仏師。国の重要文化財大覚寺の五大明王は、明円の手によるものです。
平安時代中期から京の都を中心に、仏像制作をしていた円派は、やがて鎌倉での信仰が主流になることで衰退し、明円以降に円派を聞くことはなくなります。

日本でもっとも有名な仏師「運慶」

鎌倉時代に一世を風靡した仏師「運慶」は、数々の国宝・重文となる作品を残しています。
運慶といえば、男性的な力強さが際立つ東大寺の「金剛力士像」が有名です。ほかにも国宝円成寺の「大日如来像」など、数々の名作が残されています。

巨匠と呼ばれる仏師「高村光雲」

明治・大正・昭和にその足跡を残した日本を代表する彫刻家であり、仏師です。江戸時代に高雲の弟子として仏師となりますが、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で仏像制作の仕事がなくなり、西洋美術を学びあの西郷隆盛像を制作した人物です。
高雲作の仏像は数百万円以上ですが、骨董市場で売買されています。ただし高村光雲作品は、高村規氏が鑑定人のものを選ぶことが重要です。

仏像をよみがえらせた男「新納忠之介」

新納忠之介(にいろ ちゅうのすけ)は、高村光雲の弟子として仏像制作を学び、2631体の国宝級仏像を修理したことで知られている、明治・大正・昭和で仏像修理の第一人者といわれた人物です。