岡 鹿之助(おか しかのすけ)

岡鹿之助『パンジー』

幻想的な点描画法を生み出した、岡鹿之助の生い立ち

約15年もかけて自分の作風を作り上げた青年時代

岡鹿之助は、1898年7月2日は劇評家として有名な岡鬼太郎の長男として東京で生まれました。
岡鹿之助は中学2年生の頃から、洋画家であり帝国芸術院会員であった岡田 三郎助(おかだ さぶろうすけ)にデッサンを習い、その後は東京美術学校西洋画科(現在の東京芸術大学)の岡田三郎助の教室で学びました。
26歳の時にパリに留学し、藤田 嗣治(ふじた つぐはる)に師事します。フランスではサロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダンなどに出品し、ドートンヌには『風景』という作品で入選しましたが、自分の作品が他の作品に比べて、描き方が劣っていることに気がつき大きなショックを受けます。
当初3年の予定で来ていたフランスですが、その滞在を約15年にも引き伸ばしたのは、独自の絵のスタイルをみつけるためで、試行錯誤を繰り返しヨーロッパの油彩画の研究をしたそうです。

多大なる功績を残した後年

1939年第二次世界大戦が始まったために、イギリスやアメリカを経由して3か月かけて12月に日本に帰国しました。そして帰国早々春陽会に会員となり、作品を出展、そして亡くなるまで春陽会の中心メンバーとして継続して出品しています。
1941年には、実家のある田園調布の近くにアトリエを建て、精力的に作品制作をしました。
1956年には長野県にある中部電力平穏第一発電所を描いた、『雪の発電所』が現代美術日本展最優秀賞を受賞しています。この当時岡鹿之助は灯台、観測所、発電所といった特殊な建物や教会、町役場、学校、そして花でも特にパンジーを好んでモチーフにすることが多かったようです。
1964年には日本芸術院賞を、そして1972年には芸術の発展に多大なる功績を残したということで、文化勲章を受章しています。1978年79歳の時に心筋梗塞による心不全のため、田園調布の病院にて逝去しています。

岡鹿之助の作風

岡鹿之助はパリで初めて入選した時に、マチエールと呼ばれる素材や材質の持ち味を引き出す美術的効果のなさに劣等感を抱き、それをバネに、新しい作風を生み出しました。
その作風とは、岡独特の点描画法です。その当時ジョルジュ・スーラの影響を受けたという見方もされましたが、実際のところスーラと岡の点描画法では応用している理論が違っているのです。
岡鹿之助の点描画法は同系色の点を並べることで、カンバスというでこぼこした素材を生かし、素朴であるが緻密ともいえる風景を作り出しています。

また特徴の一つに、遠近法を無視した書き方があげられます。当時人気があった遠近法を無視して描いているにもかかわらず、奥行きがあるように描くその独特の画法は、フランスでの試行錯誤の末に生み出した、岡の努力の結晶であると言えます。