小磯 良平(こいそ りょうへい)

小磯良平 版画『舞妓Ⅱ-2』

集団を描くことを人生の目標とした画家、小磯良平

優秀だった東京美術学校時期

小磯良平は1903年7月25日に、旧三田九鬼藩の旧家で貿易の仕事をしていた岸上家の次男として、神戸市にて誕生しました。
その当時から神戸は、外国との交易の場として栄えていて外国人居住地があり、実家もクリスチャンであったため、西洋的な雰囲気の中、子供時代を過ごしていたようです。
幼少の頃から絵が大好きで、紙があれば文句も言わずにひたすら絵を描いていたと言います。

兵庫県立第二神戸中学校を卒業し、上京して東京美術学校西洋画科に入学し、藤島 武二(ふじしま たけじ)教室で学びます。そこでは猪熊 弦一郎(いのくま げんいちろう)、岡田 謙三(おかだ けんぞう)、荻須 高徳(おぎす たかのり)、牛島 憲之(うしじま のりゆき)など優秀なライバルがたくさんいたため、在学中は互いに競い合い、小磯は常に鍛錬にいそしんだようです。
その甲斐あってか1925年の帝展に「兄妹」という作品で入選、そして翌年には「T嬢の像」で帝展特選を受賞します。この頃、小磯家に養子に入ったため、小磯良平と名乗るようになりました。

戦争画家として従軍した時期

そして1927年東京美術学校を首席で卒業した後、フランスに2年間留学します。
フランスでまず衝撃を受けたのが、ルーブル美術館にあったパオロ・ヴェロネーゼの「カナの婚礼」です。この絵の【人物の集団を表現する力】に魅せられ、自分自身もヴェロネーゼのように群集を描くことを人生の目標とします。
フランス時代も、サロン・ドートンヌなどに熱心に出品し「肩掛けの女」が入選しています。

1930年帰国。1936年には新制作派協会(現在の新制作協会)の結成に携わります。そして1938年から4回にわたりに従軍画家として中国に行きます。
従軍画家というのは、戦争記録画を作成する画家のことで、小磯の他には藤田 嗣治(ふじた つぐはる)、中村 研一(なかむら けんいち)らもいました。戦争中は群像を描く訓練のために、多くの戦争画を描いていますが、戦後の画集にはこれらの絵は一枚も収められていません。その理由は、戦争という特殊な環境もあり、戦争画を描いていましたが、戦争によって多くの人が亡くなっているような情景を描いたことに対し、激しい後悔の念があったからのようです。

東京藝術大学の名誉教授の号を授かった時期

1945年6月の神戸空襲では、神戸の家とアトリエの両方が焼け、そこにあった多くのすばらしい作品も灰となりました。
終戦後は、東京藝術大学の教授になり、若い画家の育成に尽力しました。
1971年に定年退官した後、東京藝術大学の名誉教授の号を授かります。
1974年には迎賓館の大広間の壁画「絵画」「音楽」を作成し、精力的に制作活動をして洋画界で多大なる功績をあげました。
1979年に文化功労賞、1983年には、文化勲章を受章しました。
1988年12月16日に肺炎のため、神戸市の病院で逝去しています。85歳でした。